橋爪功
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旭日小綬章(2021年)[8][9]

人物・エピソード
対人関係

青山高校の同級生には
仲本工事がいた。クラスが同じだったこともあり、つり輪など体操を教えてもらったこともある[10]

北村総一朗は文学座に在籍した頃から「40年来の友人」で、北村は「仕事のなかった若い時はお互いに悶々としていた」と回想する[11]。北村とは、『新・京都迷宮案内』シリーズでも共演している。

芥川比呂志を尊敬しており、「文学座で芥川比呂志に出会ったことが“僕の人生におけるエポック(新時代)の幕開け”と評している[5]。懸命に演劇に取り組む芥川から新劇の面白さを教わった橋爪は、文学座を退所した後劇団「雲」、演劇集団 円と芥川について行くこととなった。

田村正和とは1993年に公開の映画『子連れ狼・その小さき手に』、『カミさんの悪口』で共演して以来親しくなり、テレビ局ではなく田村のマネージャーから直接、田村の出演作への出演やナレーションを頼まれるなど、多くの作品で共演した[12]

石倉三郎とは親交があり、「(橋爪の)唯一の友達」と本人から言われたほど。

吉行和子とは、ドラマ『愛していると言ってくれ』映画『お日柄もよくご愁傷さま』、映画『東京家族』、『家族はつらいよ』シリーズなとで夫婦役で頻繁に共演しており交流も深い。

野際陽子とは、映画『善人の条件』、ドラマ『ずっとあなたが好きだった』『スウィート・ホーム』『ヤマ勘記者の事件日誌』『京都迷宮案内』『新・京都迷宮案内』(無印から9シリーズ連続共演)『笑う三人姉妹』など、頻繁に共演しており交流も深い。

布施博とも共演が多く義理の親子役という立場での関係性が多かった。『ずっとあなたが好きだった』や『スウィート・ホーム』では義理の親子役。『大家族ドラマ 嫁の出る幕』では実の親子役での共演だった。

最初の妻と離婚後に、舞台で共演した小川眞由美と婚約した。籍を入れないまま同棲していたが(事実婚)、数年後に婚約を破棄して別れている。

NHKドラマ「海も暮れきる」の中で酒乱の尾崎放哉を演じた。原作者の吉村昭は、その迫真の演技に「橋爪は本物の酒乱ではないかと疑い、一緒に酒を飲むときに恐怖を覚えた」という。

その他のエピソード

若い頃は、出番の多い役が回ってくることは稀で、裏方の仕事も担当していた。「演技を学ぶどころか、大道具の積み込みとバラシばかりうまくなって(…)そういう恨みつらみがパワーになって、ここまで続けてこれたという面もあるんでしょう」と回想している
[13]

舞台では小さな劇場が好みだという。「(小さな劇場では)お客さんとの距離感や独特の緊張感は特別(…)意外かもしれませんが、お客さんの側にいるのが好きなんです」と語る[14]

先述の通り舞台『スカパンの悪だくみ』の演技により演劇界で注目されたもののまだまだ生活は楽にならず、1989年のNHK連続テレビ小説青春家族』に出演した頃(当時48歳)からようやく役者で食べていけるようになった[5]

『青春家族』のロケで静岡県土肥町を訪れて以来、演劇集団 円のメンバーや地元の住民たちとともに、年に1回は同町で野外演劇「菜の花舞台」を行っており、2021年現在で26回ほどを数える(ただしコロナ禍のため2年間は中止となった)[5]

かつて多数演じていた悪役にはこだわりがあり、「“物分かりの良い上司なんていう役もけっこう来るんだけど、たまには悪役もやりたいんだ(…)悪役に見えて実際は良い人だった、というんじゃなく、圧倒的に悪い、絶対に側にいてほしくないような人物も演じたいんですよ」と話している[15]

2006年の『輪舞曲』(1月 - 3月)、引き続き同枠の『おいしいプロポーズ』(4月 - 6月)に出演。日曜劇場の連投は、稀なケースである。

福岡ソフトバンクホークスの大ファン(南海ホークス時代からのファン)。

家族・親族
橋爪家

和歌山県海南市大阪府大阪市東住吉区東京都世田谷区
父・徳松(教育者実業家
父・徳松(1893年(明治26年)2月生[16])は和歌山県海南出身で、家は極貧だったが頭が良かったので地元の篤志家がを出してくれて、中学を二年飛び級して大学に行った[3]。中学まで二里の道を毎日歩いた[3]。学校までの中間地点にいつも徳松が野糞をするの木があって、地元の人はそこを“徳松の松”と呼んでいた[3]。橋爪が物心ついた頃は徳松は大阪電気商会重役だったが、昔は旧制の天中(天王寺中学)で化学の先生をしていた[3]。そのうち何を思ったか教師をやめて東北大学法科に入り直した[3]。そして満鉄関係の仕事で中国に渡ったりした[3]汚職で一遍刑務所に入ったことがあった[3]。母は「お世話になってた人を庇(かば)って服役した」と述べている[3]。1年半後に出てきて、新しい会社を紹介してもらってそこの重役になった[3]。変わった人だった[3]。橋爪によれば「小柄ですし、男前でもなかったけど、ちょっと色気のある男だった。よく歌舞伎に連れてってくれた。いつも苦虫噛みぶしたような顔していた」という[4]。橋爪によると「父は、兄を厳しく育てたが僕には優しかった」とのこと[5]。略歴 - 1916年東京高等工業を卒業[16]。横浜舎密化学研究所に入り朝鮮電気興業に転じ大阪府立天王寺中学大阪今宮工業学校教諭となった後、1927年東北帝大法文学部を卒業後、大阪織物に入社[16]1938年専務[16]1941年には大阪電気商会大阪暖房商会取締役支配人に就任[16]宗教浄土宗[16]趣味は観劇[16]
母・きぬ
徳松より13歳年下(1906年生まれ)で、船場の甘い物屋の娘だったという[4]1989年没(享年83歳)[17]


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