橋本_(相模原市)
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1889年4月1日、町村制市町村制)施行のためのいわゆる明治の大合併によって、隣接する相原村、小山村、清兵衛新田と合併して高座郡相原村の一部となり、旧橋本村の区域をもって大字橋本が編成された。合併以前の旧相原村(大字相原)は村域内の西部に位置するが、村役場や小学校などはいずれも橋本に置かれ、1908年橋本駅が開設されたこともあって橋本が相原村の中心集落の地位を占め続けた[16]

高座郡相原村は1941年4月29日に上溝町など高座郡北部の2町5村と合併して高座郡相模原町となり、1953年公布された町村合併促進法を機に盛んになった「昭和の大合併」により、1954年11月20日に市制を施行して県下で10番目の市となる相模原市となった[17]

大字橋本の区域では1966年以降、住居表示による新町名が編成され、1990年に最後まで残った区域が「橋本台1 - 3丁目」の一部となって大字橋本は消滅した[18]。旧大字橋本における住居表示は1990年10月1日までに完了しているため、大字の残存部分はない。現在の橋本1 - 2・5 - 8丁目、南橋本2・3丁目、大山町、元橋本町、西橋本1 - 5丁目、橋本台1 - 3丁目の範囲がおおよそ元の大字橋本に相当する。一方、現在の橋本3・4丁目は元は大字小山に属していた。

また橋本は、旧相原村の行政的中心としてだけでなく、大山道、八王子道、城山町の久保沢宿に通じる久保沢道といった江戸時代の主要交通道が通っていた[19]。さらに明治時代には主要貿易産業製品であった生糸の輸出を目的とした交通網として、1908年(明治41年)に八王子駅 - 東神奈川駅を結ぶ横浜鉄道(現:JR横浜線)が開通、橋本駅が設置されたことにより[16]、周辺地域からのバス路線が橋本駅に集まったこともあって、神奈川県北部の交通の結節点として発展した。特に旧津久井郡南部の城山・津久井両地区は、バス交通を介して橋本と強く結びついている[20]。また、相模原市旧市域北西部の大沢地区や田名地区、上溝地区、さらには隣接する東京都町田市北西部(堺・小山地区)や八王子市の一部にもその影響は及ぶ。

1990年京王相模原線が橋本駅に乗り入れ、東京23区、特に新宿に直結したことによって交通結節点としての重要性をさらに増した[21]1990年代末以降、駅北口の再開発や工場跡地などへの高層マンション建設によって商業や人口の集積が進みつつあり、さらには2014年9月にリニア中央新幹線の駅が橋本駅近くに設置されることが決まり[22]、相模原市旧市域北部の拠点として成長を続けている。
地区名としての橋本
相模原市による定義
行政区域
相模原市は行政区域として、緑区の6地区の一つである「橋本地区」を定めており、以下の地区が該当する
[5]

相原1丁目?6丁目、大山町、大字下九沢(緑区に属する部分)、西橋本1丁目?5丁目、二本松1丁目?4丁目、橋本1丁目?8丁目、橋本台1丁目?4丁目、東橋本1丁目?4丁目、元橋本町を含める。西橋本5丁目に緑区役所が所在する。

公民館館区
相模原市は「橋本公民館館区」として、以下の地区を定めている[6]

橋本1?7丁目、橋本8丁目1?14番・16番の一部・25番?31番、東橋本1?4丁目、西橋本1丁目1?13番・14番の一部・15番の一部、16?28番、西橋本2丁目、西橋本3丁目1?5番・8番の一部、西橋本5丁目1?7番、元橋本町1?36・37番の一部、大山町、橋本台1丁目、橋本台2丁目1?2番・3番の一部・8?11番。

地区名の変遷

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出典検索?: "橋本" 相模原市 ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2018年5月)

前述の通り、橋本は1889年の合併以降は「相原村」の大字名となった。橋本駅南側の至近に位置する県立高校が神奈川県立相原高等学校と称するのは、この学校の開設当時に相原村に属していたからである(ただし、1922年の開設当初の校名は神奈川県立農蚕学校。1930年に神奈川県立相原農蚕学校と改称し、神奈川県立相原農蚕高等学校を経て1954年に現校名となる[23])。

相原村に初めて開設された小学校は、相原村立尋常高等旭小学校。この校名が決まるまでには村議会が紛糾した。1903年(明治36年)2月8日から議論を続け、一夜明けた2月9日の早朝、雪が降った一面の銀世界に朝日が輝いた景色を目にした村長が、九日という日にちなんで「旭」という校名にしようと提案し、全員の賛成を得たといわれる[24]。相模原町となってから開設された青年学校や(新制)中学校も同様に旭青年学校(1943年開設)、旭中学校(1947年開設)と称している[25]。また、旧相原村の区域で組織された農業協同組合も旭農業協同組合(現相模原市農業協同組合[JA相模原市]旭支店)を称しており、この区域について「相原」または「橋本」に代えて「旭」という呼称が好まれることもあった。

1941年の合併後、相模原町および相模原市は、合併以前の旧町村にそれぞれ出先機関を設置したが、旧相原村については「橋本」の呼称を用い、現在の橋本まちづくりセンターに続いている。市の行政上も、現在中央区の区域となっている小山・清兵衛新田(清新)地区を除いた旧相原村の区域を橋本地区などと呼ぶことが多い。現在では「橋本」が旧相原村の大部分の区域を指す地区名であり、「相原」はその中の小区域の呼称と認知されているようである。


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