橋本治
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2011年1月5日?2月27日に千葉県立中央図書館で行われた企画展示「千葉の文化、再はっけん!?『八犬伝』の楽しさ紹介します?」において、『南総里見八犬伝』から生まれた現代の作品として橋本の『ハイスクール八犬伝』5巻、6巻が展示された。2013年11月16日、東京都立西高等学校で「役に立たないことの大切さ」と題して講演会を行った[14]

2018年に作家デビュー40周年記念として『草薙の剣』を出版し[13]、野間文芸賞を受賞した[15]。同年6月に上顎洞癌の診断を受け[10]、手術のために入院し、10月に退院した[13]。同年11月の野間文芸賞受賞会見は体調不良で欠席し[16]、12月の贈呈式では編集者が受賞スピーチを代読した[10][注釈 4]

2019年1月29日午後3時9分、肺炎のため東京都新宿区の病院で死去[18]尾崎紅葉著『金色夜叉』を種本にした翻案小説『黄金夜界』が遺作となった。

2020年1月末、東京都内で橋本を「偲ぶ会」が開催された[19][20]。発起人は岡田嘉夫らがつとめ[20]、出席者には糸井重里[19]内田樹[19]加藤登紀子[20]関川夏央[19]高橋源一郎[20][19]養老孟司[19]らがいた。

没後に遺族より直筆原稿を含む資料が、県立神奈川近代文学館へ寄贈された[21]。同館では2024年に「帰って来た橋本治展」を開催している[21]
学歴

杉並区立新泉小学校卒業

杉並区立和泉中学校卒業

東京都立豊多摩高校卒業

東京大学文学部国文学科卒業。卒論は鶴屋南北

業績
イラストレイターとして

橋本がイラストレイター[注釈 5]を生業として考えたのは、浪人生時代の当時18歳だった[22]。その後、東京大学在学中の1968年(昭和43年)、美術サークルのほかにデザイン研究会と歌舞伎研究会に所属する中で[3]、第19回駒場祭ポスター応募した原画が採用された[1]

1974年7月にポリドールレコードから発売された「昭和枯れすゝき」のレコードジャケットのイラストを切り絵で手がける[23][24]。テレビドラマ演出家の久世光彦は、この曲を雀荘の有線放送で聞いてドラマの挿入歌として使うことを決めるが、曲を探し当てた際に見たジャケットイラストを高く評価し、作者である橋本を探しあてて、そのドラマのタイトルバックのイラストを依頼した[25]。同年10月に放送開始した「時間ですよ 昭和元年」がそれであり、1977年11月に放送開始した「せい子宙太郎」のタイトルバックも久世の依頼による[26]。久世は駒場祭のポスターも気にいり(作者の橋本を知る前に)「時間ですよ」の健ちゃん(堺正章)の部屋に貼ってドラマに登場させており、視聴者から問い合わせが多かったという[25]
古典の翻訳

『桃尻語訳枕草子』(上・中・下巻)では、『枕草子』を読みやすく翻訳することを目指し、原文に忠実に訳しつつ、背景となっている平安時代の貴族の生活の註を詳しく入れた[27]

『窯変源氏物語』(全14巻)では、光源氏の一人称の書き言葉に翻訳した[28]。3年間軽井沢の山中にこもって執筆し[29]、400字詰め原稿用紙で9700枚の量になった[4]谷崎源氏の版元である中央公論社から出版したことについて、橋本は「そこ以外から出す気はなかった」と述べている[4]

『双調平家物語』(全15巻)は400字詰め原稿用紙で8400枚の量になった[4]。執筆に際して、合計数十メートルにもなる巻物の年表と系図を作成した[4]。既製の系図にはない女性の名前も調べ上げて加えた[4]
評論

2005年に筑摩書房から創刊された「ちくまプリマー新書」の発案に関わる。「最初は教科書を書いてくれっていう話」[30]の依頼を受けたが、「子供に必要なのは雑然たる知識」だから、「一冊本を読めたって思える程度の薄さ」の「いろんな副読本」をシリーズにしてはどうか、と逆に提案する形で企画書を書いた[31]ことにより、初歩読本・入門書という「プリマー」を関した若者向け新書の創刊になった。
編み物

橋本は奇抜な服装で大学に通っていた。母の美代子が編み古しの毛糸で橋本のためにセーターを編んだところ、橋本は編み方に興味を示した。編み方を教えると、自分でやり始めて病みつきになった[29]。「編み物とは、同じことを繰り返していれば線が面になっていくという新鮮で魅力的な作業である」と述べている[32]

自分が着たいセーターがなかなか見つからず、自分で編もうという気になった[32]。自分流にデザインするようになり、模様はどんどん複雑になっていった[29]。着るセーターが全部手製という時期もあった[32]。褒められると人にあげてしまうため、橋本の手元には残らなかった[32]

橋本は読書しながら編み物をした[29]。学生の時、本が嫌いだったが、編物をすると手が動き、リズムが出るので本を読むのがはかどったという[33]。卒論を書く際には、机にじっと座って本を読むことが生産的だと思えず苦痛で、安心するためにセーターを編んだ[34]

服装で抵抗するなんて大人らしくないというような考えは信用せず、自分でセーターを編んで着ることを、日常的な抵抗として意義があることと考えていた[35](p20)。

小説現代」1978年12月号に「私のコレクション オリジナルセーター」というグラビアが掲載され、橋本のニットコレクションが初めて披露された[36]。その後取材依頼が続き、「週刊宝石」1982年12月17日号では「毛糸と針の錬金術師 橋本治のニット展覧会」と題して8ページの特集が組まれた[36]。この記事が1983年11月の『男の編み物、橋本治の手トリ足トリ』刊行につながった[36]

1982年11月に日本ヴォーグ社の「創作ニット大賞(グランプリ)」の審査員[37]、1983年5月に、西武流通グループ「全ニッポン雑巾コンテスト」審査員となる[37]


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