橋本忍
[Wikipedia|▼Menu]
しかし、作品中に登場する遺書が加藤哲太郎による『狂える戦犯死刑囚』のそれと酷似していたことから、加藤に原案者としてのクレジットを入れるよう要求されるも、橋本は『週刊朝日』からの引用であると主張し拒否、その上「このまゝ沈黙して呉れるなら十万円を出します。それは私のポケットマネーであって原作料ではない」と突き放したとされる。その後も加藤に連絡なく再放送が行われたことから、加藤は刑事告訴状東京地検に提出したが、起訴はされなかった[注釈 1]

1968年、『太平洋の地獄』執筆のため、米国ロサンゼルスに長期滞在。東京へ帰った4日後にソ連モスクワで開催された映画同盟とのシンポジウムに参加。

1973年、それまで配給会社主導で行われていた映画制作の新しい可能性に挑戦するため、「橋本プロダクション」を設立、松竹野村芳太郎東宝森谷司郎、TBSの大山勝美などが参加し、映画界に新風を吹き込む。1974年に第1作として山田洋次との共同脚本で『砂の器』を製作、原作者の松本清張に原作を上回る出来と言わしめる傑作で、興行的にも大成功をおさめ、その年の映画賞を総なめにした。

続いて1977年に、森谷司郎監督、高倉健主演で『八甲田山』を発表し、当時の配給記録新記録を打ち立てる大ヒットとなった。わずか3ヵ月後に松竹で公開された『八つ墓村』(脚本担当)もこれに迫る数字をはじき出し、この年の橋本はまさに空前絶後の大ヒットメーカーぶりを示す[8]。 数年前の『日本沈没』をあわせて、日本映画史上高額配収ランキング上位に橋本作品がずらりと並ぶという壮観を呈することになる(ちなみに、その殆どが田中友幸プロデュース作品であった)。『八つ墓村』は、この当時人気だった東宝?角川春樹事務所金田一耕助シリーズ(監督:市川崑、主演:石坂浩二)が綿密に構成された「合理的な謎解き」を前面に出していたのに対して、オカルティズム色を強く出した作品となった。 以後、1980年代まで脚本執筆、映画制作と精力的に活動した。

しかし1982年、脚本だけでなく製作、原作、監督もこなした東宝創立50周年記念映画『幻の湖』が、わずか2週間で興行打ち切りという憂き目にあう[8]。その後も2本の脚本を書いたが、体調不良もあり、以後は事実上引退した状態が続いた。しかし体調回復に伴い、2006年に黒澤明との関係を語った著書『複眼の映像 私と黒澤明』を発表した。そして、2008年中居正広主演でリメイクされることになった劇場版『私は貝になりたい』で、自らの脚本をリライトした[8]2000年、故郷である兵庫県市川町に「橋本忍記念館」がオープンした。

2018年7月19日9時26分、肺炎のため東京都世田谷区の自宅で死去[9]。100歳没。

米国の映画芸術科学アカデミーは、2019年開催の第91回アカデミー賞において、逝去した映画人を悼む“In Memoriam”(イン・メモリアム)のコーナーで、橋本を追悼した[10][11][12]

脚本の完成度の高さ、そのスタンスから同業者に最も尊敬されている脚本家の一人であり、その影響は日本にとどまらず、世界中の製作者にも影響を与えている。
人物

暗い部屋で長年作業をしていたため、強い光に当たると眩暈がする職業病を持ち、番組出演でも配慮される。「漢字が混ざるとイメージが固定されるので」と、単独執筆の場合、脚本はすべてカナタイプ[注釈 2]を使用して、片仮名でタイプしていた。このため現場のスタッフは脚本を読むのが大変だったという[13]

競輪ファンとして有名で、昭和40年代頃から50年代にかけては特別競輪決勝のTV中継にゲストとしてたびたび姿を見せており[14]寺内大吉と共に『論客』として競輪界への提言や出版物への寄稿なども行っていた。代表作砂の器のクライマックスシーンを「まくり一発」だと、競輪に例えて言及した。逮捕状請求の捜査会議までは殺人犯を追う地味で、淡々とした展開が進むが、親子遍路から映画展開が劇的に変化する。まくり一発とは競輪用語で終盤での猛追で他を追い抜き、ゴールする戦法を指す。
その他

黒澤映画に三船敏郎が出演しなくなったことについて、最後となった『赤ひげ』が直接の原因ではなく、そういうことにならないといけない事情が、それ以前から積み重なっていたと思うと語った。具体例として、『蜘蛛巣城』撮影のエピソードをあげている。加えて黒澤映画は撮影期間が長く、その間、別な仕事をすれば数本分のギャラが入るから、黒澤明自身もそのことをよくわかっていたと語った。結果として両者の関係が『赤ひげ』で最後になったことは、二人にとっても不幸であったと語っている[15]
受賞

ブルーリボン賞脚本賞(昭和25年度・31年度・33年度・37年度・41年度)

毎日映画コンクール脚本賞(昭和27年度・31年度・33年度・35年度・41年度・49年度)

キネマ旬報ベスト・テン脚本賞(昭和33年度・35年度・41年度・42年度・49年度)

芸術祭賞(脚本)(昭和33年)

1977年:日本映画テレビプロデューサー協会賞(特別賞)

1991年:勲四等旭日小綬章[16]

1991年:NHK特別賞シナリオ功労賞

1997年:日本映画批評家大賞プラチナ大賞

2007年:第31回山路ふみ子賞映画功労賞(平成19年)

2013年:全米脚本家組合賞ジャン・ルノアール賞(平成25年)

映画
脚本作品

羅生門1950年8月26日公開、黒澤明監督、大映

平手造酒1951年11月2日公開、並木鏡太郎監督、新東宝

生きる1952年10月9日公開、黒澤明監督、東宝

加賀騒動1953年2月19日公開、佐伯清監督、東映

太平洋の鷲(1953年10月21日公開、本多猪四郎監督、東宝)

さらばラバウル1954年2月10日公開、本多猪四郎監督、東宝)

花と竜 第1部 洞海湾の乱斗(1954年3月3日公開、佐伯清監督、東映)

花と竜 第2部 愛憎流転(1954年3月24日公開、佐伯清監督、東映)

勲章(1954年4月14日公開、渋谷実監督、松竹

七人の侍(1954年4月26日公開、黒澤明監督、東宝)

次郎長三国志 第九部 荒神山(1954年7月14日公開、マキノ雅弘監督、東宝)

大岡政談妖棋伝 白蝋の仮面(1954年8月10日公開、並木鏡太郎監督、新東宝)

大岡政談妖棋伝 地獄谷の対決(1954年8月17日公開、並木鏡太郎監督、新東宝)

初姿丑松格子(1954年11月30日公開、滝沢英輔監督、日活

生きとし生けるもの1955年2月25日公開、西河克己監督、日活)

生きものの記録(1955年11月22日公開、黒澤明監督、東宝)

白扇 みだれ黒髪(1956年3月15日公開、河野寿一監督、東映)

真昼の暗黒(1956年3月27日公開、今井正監督、現代ぷろだくしょん


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:72 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef