樺山資紀
[Wikipedia|▼Menu]
その後も枢密顧問官第2次松方内閣内務大臣第2次山縣内閣文部大臣を歴任した。なお、第2次松方内閣の内務大臣であった明治29年(1896年)11月12日、改正条約発効の準備のための改正条約施行準備委員会委員長に就任している。

明治38年(1905年)11月20日に後備役となり[4]、同43年(1910年)11月20日に退役した[5]大正11年2月8日薨去。享年84。
逸話軍人名誉:樺山中将(安達吟光画、大英図書館所蔵)

樺山がまだ生家の姓を名乗り橋口覚之進だった頃、同じ薩摩藩の指宿藤次郎が見廻組に殺された。お付きだった若侍は逃げ出したが葬儀に列席すると、橋口に焼香を一番先にするよう促され、遺体に近づいたところ橋口に首をはねられた。薩摩に伝わる郷中教育では卑怯が最も嫌われるため、この行為は周囲も納得の振る舞いだった[6][7]

日清戦争中、「西京丸」に乗艦した[注釈 1]が、商船を改造した急ごしらえの船艇のため他の艦より取り残され、の艦隊に狙い撃ちをされそうになった。この時、敵の旗艦へ突込み敵僚船が砲撃し難いようにし反転して逃げ切った[注釈 2]

第2次松方内閣[注釈 3]時に、大東義徹犬養毅尾崎行雄らが、宮内省の腐敗などを批判した雑誌『26世紀』[注釈 4]の発行を停止させないように樺山に念押しをしに行った際、樺山は自分の首を叩きながら「これが飛んでも、発行停止などはしない、一度諸君に約束をした以上は、断じてそんなことはない」と言った[8]が、結局、政府は同誌を発行禁止にした(26世紀事件)。これに関して尾崎が問い詰めたところ、樺山は言葉少なく申し開きのようなことをしただけだった[9]

1907年明治40年)、樺山が指宿温泉を訪れた際、西郷隆盛が1874年(明治7年)旧暦12月27日から約1ヶ月間にわたり鰻温泉の福村市左衛門宅に長期滞在したことについて、福村の妻と長男から依頼を受けてその経緯を聞き書きし「樺山資紀文書」として残した[10]。この文書には西郷が鰻温泉に逗留していた時の様子や江藤新平の訪問等が記されている[10]

晩年に脳溢血で倒れ1週間意識が無かった。当時かなりの高齢であるため、半ば諦めて皆が葬式の準備を始めたところ、むっくりと布団から身を起こしたという。この後遺症で右半身に少し麻痺が残ったが、(脳溢血が軽度であったため)リハビリもせず快復できたといわれる[要出典]。その後、食道癌を併発し、再び脳出血を起こした翌日に死去した[11]

日本統治時代の台北市には初代台湾総督の樺山に由来する樺山町があった[12]。第二次世界大戦後に北京語で同じ発音の「華山」に改称されている[要出典]。

麹町区永田町にあった自邸はジョサイア・コンドル設計による洋館で、1930年串田孫一の父・串田萬蔵に売り、のちに吉田茂の手に渡り、その後、参議院第二別館となった[13][14]
栄典
位階


明治5年
4月15日 - 正七位[15]

1873年(明治6年)6月25日 - 従六位[15]

1875年(明治8年)2月24日 - 正六位[15]

1879年(明治12年)7月7日 - 従五位[15]

1880年(明治13年)11月30日 - 正五位[15]

1884年(明治17年)2月6日 - 従四位[15][16]

1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[15][17]

1890年(明治23年)6月11日 - 従二位[15][18]

1900年(明治33年)6月20日 - 正二位[15][19]

1922年(大正11年)2月8日 - 従一位[15][20]

勲章等


1877年(明治10年)12月8日 - 勲三等旭日中綬章[15]

1878年(明治11年)3月12日 - 明治七年従軍記章[15]

1882年(明治15年)12月29日 - 勲二等旭日重光章[15][21]

1884年(明治17年)7月7日 - 子爵[15][22]

1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[15][23]

1891年(明治24年)6月27日 - 勲一等瑞宝章[15][24]

1895年(明治28年)

8月5日 - 旭日大綬章功二級金鵄勲章伯爵[15][25]

11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[15]


1899年(明治32年)12月27日 - 金杯一組[15]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:108 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef