横須賀市
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現在もアメリカ海軍第7艦隊横須賀海軍施設および海上自衛隊自衛艦隊横須賀地方隊および陸上自衛隊武山駐屯地久里浜駐屯地航空自衛隊武山分屯基地などの基地が置かれており、現在でもかつての軍都・軍港としての名残を多く残す。また自衛隊関係の教育施設(防衛大学校陸上自衛隊高等工科学校)も置かれている。

三浦丘陵に位置するために、地形が山がちという地理的要因により、今後は飛躍的な人口増加を望めないことから、「国際海の手文化都市」をスローガンに「交流人口」(仕事やレジャーでの流入人口)の増加を狙い「また来てもらえる街」を目指している。施策として横須賀リサーチパーク (YRP) 開設やよこすか海辺ニュータウンの開発、高等教育機関(神奈川県立保健福祉大学、陽光小学校跡地への福祉系4年制大学)の誘致。海軍カレーヨコスカネイビーバーガー(ご当地バーガー)によるまちおこし、異国情緒漂うどぶ板通り、映画撮影や市内が登場するアニメ作品の誘致やタイアップ企画。ヴェルニー公園(1万メートルプロムナード計画の起点)、三笠公園くりはま花の国長井海の手公園 ソレイユの丘横須賀美術館などの、観光施設の整備などが積極的に行われている。
地理
隣接している自治体・行政区

横浜市金沢区

逗子市

三浦市


三浦郡葉山町


東京湾を間に挟んで千葉県富津市に面する。東京湾フェリーで連絡。

主な山

大楠山

鷹取山

衣笠山

武山

富士山(三浦富士)

砲台山

大勝利山

愛宕山

権現山

主な河川

平作川

鷹取川

松越川

竹川

野比川

長沢川

津久井川

川間川

小田和川

萩野川

前田川

歴史

江戸時代以前については
三浦半島#歴史も参照。

約3万年前(旧石器時代)に遡る石器や29000年以前に作られた長方形の落とし穴列が船久保遺跡で発見されている。縄文時代に入ると生活の跡である貝塚も市内に散見されるようになる。古墳時代には小規模ながら古墳がつくられ、奈良時代中ごろまでは相模国から上総国へと抜ける古東海道が通じていた。

市内公郷の宗元寺(曹源寺)は県内屈指の古刹であり、三浦郡の行政の中心地であったともいわれる。中世には三浦氏、後に相模三浦氏が一帯を支配するようになるが、戦国時代に北条氏により滅亡、その後徳川家康の領地となる。江戸時代に入ると海上からの首都の玄関口となり、燈明堂や奉行所がおかれた。1720年(享保5年)に浦賀奉行所が置かれて以降は浦賀が商業地として栄えた。

幕末には黒船来航の地となり、観音埼灯台の点灯、横須賀製鉄所横須賀鎮守府設置、横須賀線の開通など、近代化や国防における要所として発展、県内では横浜市に次いで2番目に市制施行を果たした。昭和時代に入ると大日本帝国海軍の一大拠点となり、軍事施設を持つ周辺の町村を併合することでほぼ現在と同様の市域が形作られた(逗子町は後に分離)。このため横須賀市では昭和と平成の大合併に伴う市町村合併は行われていない。

戦後アメリカ軍自衛隊が駐留する一方、東京横浜など首都圏ベッドタウンとして発展した。
年表

1063年村岡為通衣笠城を築き、三浦氏を名乗る。

1180年:衣笠城が落ち、三浦大介義明が死ぬ(衣笠城合戦)。

1247年:三浦氏は北条時頼に滅ぼされるが、佐原十郎義連の子らが北条氏側につき、「三浦介」をつぐ。

1253年日蓮が米が浜に流れ着いたと伝えられる。

1518年:新井城が北条早雲に攻められ、三浦氏一族滅亡。


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