横田めぐみ
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彼女が泣き叫んで抵抗したため、約40時間にわたって、北朝鮮に向かう船の船倉に閉じ込められた[15][21][22]。彼女は「お母さん、お母さん」と泣き叫び、北朝鮮に到着時、出入口や壁などを引っ掻いたため爪が剥がれそうになるほど血まみれだった[11][15][21][22]。これは、北朝鮮の工作員だった安明進が、拉致実行犯のひとりである「丁(チョン)教官」(丁順権)から直接聞いた話である[21][22][23]

丁順権は、1988年(昭和63年)10月の朝鮮労働党創立記念式典の際、横田めぐみを指して「あの娘は自分が日本から連れてきた子だ」と安に話しかけたという[23][24]。丁順権は北朝鮮に拉致した後、何度か横田めぐみに話しかけたが無視されて寂しかったと語っており[24]、拉致してみたら大人ではなく少女だったことで責任者から問い詰められ、自身も気がとがめたこと、日本に再入国した際、街に貼られているめぐみのポスターを1枚はがして持ち帰ったことなどを安明進に話している[25]

初めて彼女について証言した亡命者(安明進ではない)によれば、彼女は拉致されてきた後、「朝鮮語を覚えたらお父さん、お母さんに会わせてあげる」と言われて一生懸命勉強したが、それが叶わないと知り、精神を病んで入院したという[26][注釈 3]
曽我ひとみと同居「曽我ひとみ」も参照

曽我ひとみの証言によれば、1978年(昭和53年)8月から1980年(昭和55年)6月頃まで平壌市内で1年半曽我ひとみと同居しており、2人はすぐに仲良くなったという[27]。彼女は曽我ひとみといるときはいつもにこにこしていて、かわいらしいえくぼを見せていた[27]。昼は朝鮮名で呼び合ったが夜はひそひそ声で日本語でさまざまなことを話した[27][28]。彼女と曽我ひとみを担当した教育係の一人が辛光洙であった[29]。1年早く北朝鮮に連れてこられためぐみは曽我ひとみに朝鮮語の初歩を授けた[29]。2人は一緒に朝鮮語を勉強し、また、バドミントン卓球をすることもあったという[30]。当時15歳だった彼女は、故郷のことをしきりに思い、泣くことも多かったという[29]。2人とも日本が恋しく、とにかく日本に帰りたかった[27]。母への思いは共通していた[27]。曽我ひとみとは強い友情で結ばれ、のちに自分の娘に曽我ひとみの朝鮮での名前である「ヘギョン」の名をつけた[29]。曽我ひとみがチャールズ・ジェンキンスと結婚することになったとき、彼女はひとみに餞別としてバドミントン用のバッグをあげたという[29]。その後、1983年1984年頃、横田めぐみは曽我ひとみにそれとなく音信を伝える方法を考え、それによれば平壌の中心部に住んでいて元気にやっていたようである[31]
田口八重子と同居「田口八重子」および「金淑姫」も参照

北朝鮮の工作員であった金賢姫2009年に飯塚耕一郎(田口八重子の長男)に語ったところによれば、1984年(昭和59年)頃に平壌南東約20キロメートルの中和郡忠龍里にある日本人居住地で、拉致被害者である横田めぐみ、田口八重子と金賢姫の同僚工作員であった金淑姫の3人が生活していた[28][32]。金淑姫は金賢姫に対し、忠龍里の招待所は「電気事情が悪く寒いので、服を何枚も重ね着していた」と語ったという[28][32]。めぐみは当時、金淑姫に日本語を教えていた[28][33]。金賢姫は、2009年の韓国誌『月刊朝鮮』のインタビューでも、「横田めぐみが金淑姫に日本語を教えていた。横田と淑姫が一緒に写ったポラロイド写真も見たことがある」と証言している[33][注釈 4]。また、金賢姫が工作員教育を受けているとき、「おとなしく、憂鬱気味で、よく病気になり入院していた」という風評を耳にしたという[33][注釈 5]


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