横澤彪
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役員待遇編成局ゼネラルプロデューサーに昇進したかたわら、ヴァージンジャパン[6]社長も兼任したが、1995年3月にフジテレビを退社した。定年を待たない退社となったが、人間に定年があるのがおかしいと思っており、定年という概念があってはならないとも思っていたと話している[2]

1995年1月17日にフジテレビ主催の横澤の送別会が行われたが、阪神・淡路大震災による交通機関の運休のため、横澤が出席出来ないアクシデントに見舞われた[7][8][9]
フジテレビ退社後

フジテレビ退社後は吉本興業に移り、東京支社長や専務取締役を歴任した。フジテレビ退社から吉本興業への転職に関しては、日本テレビスーパーテレビ 情報最前線』が密着取材の模様を放送した。吉本には当初、長く在籍するつもりはなかったが、後に社長となる林裕章に懇願され、長期にわたり在籍した[10]

2005年に吉本興業相談役を退任し、翌2006年にインターネットサイトJ-CASTでコラム『横澤彪のチャンネルGメン69』の連載を開始した。『Gメン69』では、古巣のフジテレビや吉本興業に対しても歯に衣着せぬ主張を展開。2007年には悪性リンパ腫の闘病を告白し、話題となった。
死去

2011年1月8日肺炎のため東京都内の病院で死去[11]。73歳没。1月13日に通夜、翌14日に告別式が東京都大田区内の池上本門寺で営まれた。告別式には片岡鶴太郎山田邦子栗原小巻山ア努など約600人が参列し、品川区桐ヶ谷斎場荼毘に付された。戒名は富岳院衆楽日彪居士[12]。横澤の起用によってスターダムにのし上がったタモリは、通夜・告別式には参列しなかったが、後に横澤の自宅を弔問している。
エピソード

「ひょうきん族」スタート当初は「あまり楽しくなかった」という
[13]

日本テレビプロデューサーの土屋敏男は、若手時代にダウンタウンの世話人を務めた縁から、芸能事務所マネージャーを装って当時のフジテレビ河田町本社スタジオアルタの収録スタジオに頻繁に出入りしていた時期があった。その際に『ひょうきん族』『いいとも!』の初代プロデューサーだった横澤と知り合ってバラエティ番組制作に関する様々な助言を受け、後に『GENKI TV』『電波少年』などで生かされるノウハウを学んだ事から、横澤の事を尊敬するテレビマンであると公言している。横澤もこの当時から土屋の番組制作に対する熱意や姿勢を高く評価しており、吉本退社後には数々の講演会やフォーラムで土屋との共演を果たした。詳細は「土屋敏男#エピソード」および「ダウンタウン (お笑いコンビ)#東京進出」を参照

1994年(平成6年)2月には日本共産党機関紙『赤旗』(現・しんぶん赤旗)のインタビューを受け自らの政治思想を語った。この記事は顔写真付きで赤旗日刊紙一面に大々的に掲載された[14]。当時まだフジテレビ社員であった上に、過去には反共主義を掲げている産経新聞のイメージキャラクターまで務めた横澤が共産党の機関紙に登場した事は、大きな話題となった[15]。尚、横澤はこの1年1ヶ月後にフジテレビを退社している。「産経新聞#「正論」路線と『主張』『正論』欄」および「しんぶん赤旗#マスコミのタブー」も参照

フジテレビのメディア研究誌『AURA』に、1995年から2006年に亘って連載されたエッセイをまとめたkindle版電子書籍「横澤彪の吉本探訪記」1?6、「横澤彪 メディアのご意見番 其の壱」(供に新翠舎)が2013年3月27日に出版された。(2013年5月31日にiBookstoreでも出版)

プロ野球横浜ベイスターズの大ファンであり、同じく大の横浜ファンであるジャズピアニスト山下洋輔1998年に横浜が38年ぶりの日本一になった日に共に美酒を味わった事を思い出として語っている[16]TBS調査情報で行ったテレビマンユニオン代表取締役会長の重延浩、TBS常務取締役の衣笠幸雄との三者対談では、TBSニュースバードで横浜戦を試合開始から欠かさず見ており、横浜が負けた試合ではあまりの悔しさにテレビを蹴り上げているというエピソードを披露している[17]

担当番組
フジテレビ時代

ママとあそぼう!ピンポンパン

THE MANZAI

らくごin六本木

スター千一夜


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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