横溝正史
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父親は岡山県浅口郡船穂町柳井原[注 3](現・倉敷市船穂町柳井原)出身[13]、母親は岡山県窪屋郡清音村柿木[注 4](現・総社市清音柿木)出身。翌日の旧暦5月25日楠木正成(まさしげ)の命日にあたることから、名前の「まさし」までを取って命名された[4]。5歳の時に母を亡くし、まもなく父が後妻(正史にとって継母)・浅恵を迎えた[8]

1920年大正9年)3月、神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)を卒業後、第一銀行神戸支店に1年間勤務[17][18]

1921年大阪薬学専門学校大阪大学薬学部の前身校)入学後、雑誌『新青年』の懸賞に応募した『恐ろしき四月馬鹿エイプリル・フール)』で一等を獲得し、賞金10円を得た[8]。これが処女作とみなされている。

1924年、専門学校を首席で[9]卒業した後、一旦実家の生薬屋「春秋堂」で薬剤師として従事していたが[注 5]1926年江戸川乱歩の招きに応じて上京、博文館に入社する。1927年1月、神戸にて中島孝子と結婚[17][19]東京市小石川区小日向台町(現・東京都文京区小日向)に居を構える[17]。同年に『新青年』の編集長に就任。その後も『文芸倶楽部』、『探偵小説』等の編集長を務めながら創作や翻訳活動を継続したが、1932年に同誌が廃刊となったことにより同社を退社し、専業作家となる。

1933年(昭和8年)5月上旬に肺結核により大量の喀血を起こし「ヨコセイもどうやら年貢の納め時らしい」と言われるほど危険な状況になり、友人たちの経済的援助もあって[20]1934年(昭和9年)7月下旬に長野県八ヶ岳山麓の富士見高原療養所で5年間に渡る療養生活を余儀なくされ[8]、執筆もままならない状態が続く。1日あたり3 - 4枚というペースで書き進めた渾身の一作『鬼火』も当局の検閲により一部削除を命じられる。また、戦時中は探偵小説の発表自体が制限されたことにより、捕物帳シリーズ等の時代小説執筆に重点を移さざるを得なかったが[8]、1938年(昭和13年)から3年以上にわたって連載を続けていた『人形佐七』シリーズも時局の切迫で連載誌の『講談雑誌』から締め出されて一旦終了してしまう[注 6][21]1939年の末に東京に戻り[17]太平洋戦争の開戦前後である1941年6月から12月の時期には、横溝唯一の長編家庭小説とされる『雪割草』を地方紙に連載した(#家庭小説の項を参照)。

1945年(昭和20年)4月[注 7]より3年間、岡山県吉備郡岡田村(のち大備村真備町を経て、現・倉敷市真備町岡田)に疎開第二次世界大戦終戦前から、「戦争中圧殺されていた探偵小説もやがて陽の目を見ることが出来るであろう」と考え、「晴耕雨読で、やがて来たるべき文芸復興の日に備えていた」[23]。そして、終戦後、推理小説が自由に発表できるようになると本領を発揮し、1948年金田一耕助が初登場する『本陣殺人事件』により第1回探偵作家クラブ賞(後の日本推理作家協会賞)長編賞を受賞。同作はデビュー後25年目、長編としても8作目にあたるが、自選ベストテンとされるものも含め、代表作と呼ばれるものはほとんどこれ以降(特にこの後数年間)に発表されており、同一ジャンルで書き続けてきた作家としては異例の遅咲き現象である。やや地味なベテランから一挙に乱歩に替わる日本探偵小説界のエース的存在となった。1948年8月に東京へ引き揚げ[24][25]、その後も本格派推理小説を続々と発表する。

こうして戦後になって本人なりに文運が開けてきたと思っていた1949年(昭和24年)にふたたび結核を発症し、本人曰く「この時はマイシンという薬がなかったら、私はおそらくあの世とやらに旅立っていた」という危機に陥ったが、前述のようにストレプトマイシンが手に入るようになったため助かり、その後1970年頃までは胸の痼疾に悩まされることがなくなった[26]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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