横溝正史
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角川書店 角川文庫ミステリーフェア GUILTY篇(高木彬光森村誠一と出演、1978年)[82]

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 大阪薬専は3年制で専攻科もなかったので、薬学得業士の称号は有さないと思われる。
^ 「探偵作家」を自負し、「推理作家」と呼ばれることに抵抗を感じていた[1]
^ 江戸時代に柳井原村の村役人であった者の氏名には、主として庄屋文書(名主の項目も参照)に載っているところでは横溝のを称したものが多い[11]
横溝の長男・亮一によると、柳井原はどこもかしこも横溝姓だらけで、鎌倉幕府末期の武将・北条泰家(第14代執権高時の弟)が分倍河原の戦い新田義貞軍に敗れた際に家臣の横溝八郎が泰家を逃すために討ち死にし、逃れてきた八郎の一族が柳井原に移り住んだことによるものと言われており、城跡があることから侍であった横溝一族が横溝城という城(#関連項目梁場山城も参照)も築いたと柳井原の人は信じているとのことである[12]
^ 「柿木」は「かきのき」と読む[14]。『横溝正史の世界』には「柿の木」と記載されている[15]。生薬屋の注釈で後述するように、総社町を中心に、真備町岡田や清音村あたりまで「備中売薬」という置き薬が盛んな地で、かつては「日本五大売薬」に挙げられる時代もあった[16]
^ 生薬屋は母親が営んでいたもので、母親の生家の柿木は総社に近く、その辺一帯が置き薬の製造販売が盛んな地であったことから、母親の生家もそれに関係していたのではないかというのが、横溝の長女・℃q(現・高松℃q)の説である[15]
^ この時の規制は連載のみで単行本化はできたので本人によるとこの方の印税で終戦まで食いつなげたという。
^ 『金田一耕助のモノローグ』には「4月の終わりか5月上旬のことであったろう」と記載されている[22]
^ 清張と正史のお互いに対する考えは、「松本清張#推理作家」の横溝正史に関する記述を参照。
^ 実際には横溝は超常現象的な内容はほとんど書かない。角川文庫収録作品では@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}話の端[要校閲]的にのせられた短編を除くと『髑髏検校』に例外的に妖怪が登場する。
^ 第1位は松本清張、第5位は森村誠一、第10位が高木彬光であった[27]
^ 封切り初日に、プロデューサーの葛井欣士郎から作者に「先生、ヒットです、ヒットです。あまりの観客にドアがしまらないくらいです」と電話があり、京都でもヒットしていると監督の高林陽一から電話があった[28]
^ 彫刻家の平櫛田中は当時103歳。別のインタビュー記事では「田中さん」となっている[29]
^ アガサ・クリスティは、横溝が戯れ歌を詠んだ時点で84歳(横溝は当時72歳)。その翌年の1月12日に85歳で没したが、晩年まで現役作家であったクリスティの死を悼んで、横溝の寄稿文が朝日新聞に掲載された。
なお、横溝が酔うとよく口にした戯れ歌は長男・亮一が記したところでは「コナン・ドイルに及びもないが、せめてなりたやクリスティー」である[30]。他方、次女の野本瑠美によれば「田中さんには及びもないが、せめてなりたやクリスティー」を日ごろ口にしていたという[31]。もっとも、コナン・ドイルは71歳で没しており、「田中さんには及びもないが」の戯れ歌を詠んだ当時の横溝はその年齢を上回っている。
^ この4作は、長野県、静岡県、東京都、岡山県と、横溝が好んで舞台にした4つの都県を一巡している。
^ 『古城の秘密』は『813』の翻案作品。同書の前篇[34]は1912年(大正元年)11月15日に、後篇は1913年(大正2年)2月4日にそれぞれ武侠世界社から出版された[35][36][37]
^ 横溝が『古城の秘密』前篇を読んだのは小学6年生時の1914年(大正3年)であるが、後篇は神戸中の本屋を探し回って見つからず、神戸市立図書館の目録に見つけたものの常に貸し出し中で、1917年(大正6年)にようやく閲読することができた[38]
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