横溝正史
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『日本推理小説大系 第7巻』(東都書房、1960年)
誕生横溝 正史 (よこみぞ まさし)
1902年5月24日
日本 兵庫県神戸市東川崎
死没 (1981-12-28) 1981年12月28日(79歳没)
日本 東京都新宿区戸山
墓地春秋苑墓地(神奈川県川崎市
職業作家
言語日本語
国籍 日本
教育旧制専門学校[注 1]
最終学歴大阪薬学専門学校
活動期間1921年 - 1981年
ジャンル推理小説
代表作『本陣殺人事件』(1946年)
蝶々殺人事件』(1946年)
獄門島』(1947年)
八つ墓村』(1949年)
犬神家の一族』(1950年)
悪魔が来りて笛を吹く』(1951年)
悪魔の手毬唄』(1957年)
主な受賞歴探偵作家クラブ賞長編賞受賞(1948年)
勲三等瑞宝章受章(1976年)
デビュー作『恐ろしき四月馬鹿』(1921年)
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横溝 正史(よこみぞ せいし、本名: よこみぞ まさし、1902年明治35年〉5月24日 - 1981年昭和56年〉12月28日)は、日本推理作家[注 2]。戦前にはロマン的な『鬼火』、名探偵・由利麟太郎が活躍する『真珠郎』、戦後には名探偵・金田一耕助を主人公とする『獄門島』『八つ墓村』『犬神家の一族』などの作品を著した。

当初は筆名は本名読みであったが、誤読した作家仲間にヨコセイと渾名されているうちに、セイシをそのまま筆名とした[2]兵庫県神戸市東川崎出身[3]
経歴生誕碑『富士』第5巻第8号(世界社、1952年)[4]より

横溝は1902年明治35年)5月24日、兵庫県神戸市東川崎(現・中央区東川崎町)に父・宜一郎(ぎいちろう)[5][6][7]、母・波摩の次男として生まれた[8](三男[9][10]とする説もある)。父親は岡山県浅口郡船穂町柳井原[注 3](現・倉敷市船穂町柳井原)出身[13]、母親は岡山県窪屋郡清音村柿木[注 4](現・総社市清音柿木)出身。翌日の旧暦5月25日楠木正成(まさしげ)の命日にあたることから、名前の「まさし」までを取って命名された[4]。5歳の時に母を亡くし、まもなく父が後妻(正史にとって継母)・浅恵を迎えた[8]

1920年大正9年)3月、神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)を卒業後、第一銀行神戸支店に1年間勤務[17][18]

1921年大阪薬学専門学校大阪大学薬学部の前身校)入学後、雑誌『新青年』の懸賞に応募した『恐ろしき四月馬鹿エイプリル・フール)』で一等を獲得し、賞金10円を得た[8]。これが処女作とみなされている。

1924年、専門学校を首席で[9]卒業した後、一旦実家の生薬屋「春秋堂」で薬剤師として従事していたが[注 5]1926年江戸川乱歩の招きに応じて上京、博文館に入社する。1927年1月、神戸にて中島孝子と結婚[17][19]東京市小石川区小日向台町(現・東京都文京区小日向)に居を構える[17]。同年に『新青年』の編集長に就任。その後も『文芸倶楽部』、『探偵小説』等の編集長を務めながら創作や翻訳活動を継続したが、1932年に同誌が廃刊となったことにより同社を退社し、専業作家となる。

1933年(昭和8年)5月上旬に肺結核により大量の喀血を起こし「ヨコセイもどうやら年貢の納め時らしい」と言われるほど危険な状況になり、友人たちの経済的援助もあって[20]1934年(昭和9年)7月下旬に長野県八ヶ岳山麓の富士見高原療養所で5年間に渡る療養生活を余儀なくされ[8]、執筆もままならない状態が続く。1日あたり3 - 4枚というペースで書き進めた渾身の一作『鬼火』も当局の検閲により一部削除を命じられる。また、戦時中は探偵小説の発表自体が制限されたことにより、捕物帳シリーズ等の時代小説執筆に重点を移さざるを得なかったが[8]、1938年(昭和13年)から3年以上にわたって連載を続けていた『人形佐七』シリーズも時局の切迫で連載誌の『講談雑誌』から締め出されて一旦終了してしまう[注 6][21]1939年の末に東京に戻り[17]太平洋戦争の開戦前後である1941年6月から12月の時期には、横溝唯一の長編家庭小説とされる『雪割草』を地方紙に連載した(#家庭小説の項を参照)。

1945年(昭和20年)4月[注 7]より3年間、岡山県吉備郡岡田村(のち大備村真備町を経て、現・倉敷市真備町岡田)に疎開


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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