横溝正史
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1921年大阪薬学専門学校大阪大学薬学部の前身校)入学後、雑誌『新青年』の懸賞に応募した『恐ろしき四月馬鹿エイプリル・フール)』で一等を獲得し、賞金10円を得た[8]。これが処女作とみなされている。

1924年、専門学校を首席で[9]卒業した後、一旦実家の生薬屋「春秋堂」で薬剤師として従事していたが[注 5]1926年江戸川乱歩の招きに応じて上京、博文館に入社する。1927年1月、神戸にて中島孝子と結婚[17][19]東京市小石川区小日向台町(現・東京都文京区小日向)に居を構える[17]。同年に『新青年』の編集長に就任。その後も『文芸倶楽部』、『探偵小説』等の編集長を務めながら創作や翻訳活動を継続したが、1932年に同誌が廃刊となったことにより同社を退社し、専業作家となる。

1933年(昭和8年)5月上旬に肺結核により大量の喀血を起こし「ヨコセイもどうやら年貢の納め時らしい」と言われるほど危険な状況になり、友人たちの経済的援助もあって[20]1934年(昭和9年)7月下旬に長野県八ヶ岳山麓の富士見高原療養所で5年間に渡る療養生活を余儀なくされ[8]、執筆もままならない状態が続く。1日あたり3 - 4枚というペースで書き進めた渾身の一作『鬼火』も当局の検閲により一部削除を命じられる。また、戦時中は探偵小説の発表自体が制限されたことにより、捕物帳シリーズ等の時代小説執筆に重点を移さざるを得なかったが[8]、1938年(昭和13年)から3年以上にわたって連載を続けていた『人形佐七』シリーズも時局の切迫で連載誌の『講談雑誌』から締め出されて一旦終了してしまう[注 6][21]1939年の末に東京に戻り[17]太平洋戦争の開戦前後である1941年6月から12月の時期には、横溝唯一の長編家庭小説とされる『雪割草』を地方紙に連載した(#家庭小説の項を参照)。

1945年(昭和20年)4月[注 7]より3年間、岡山県吉備郡岡田村(のち大備村真備町を経て、現・倉敷市真備町岡田)に疎開第二次世界大戦終戦前から、「戦争中圧殺されていた探偵小説もやがて陽の目を見ることが出来るであろう」と考え、「晴耕雨読で、やがて来たるべき文芸復興の日に備えていた」[23]。そして、終戦後、推理小説が自由に発表できるようになると本領を発揮し、1948年金田一耕助が初登場する『本陣殺人事件』により第1回探偵作家クラブ賞(後の日本推理作家協会賞)長編賞を受賞。同作はデビュー後25年目、長編としても8作目にあたるが、自選ベストテンとされるものも含め、代表作と呼ばれるものはほとんどこれ以降(特にこの後数年間)に発表されており、同一ジャンルで書き続けてきた作家としては異例の遅咲き現象である。やや地味なベテランから一挙に乱歩に替わる日本探偵小説界のエース的存在となった。1948年8月に東京へ引き揚げ[24][25]、その後も本格派推理小説を続々と発表する。

こうして戦後になって本人なりに文運が開けてきたと思っていた1949年(昭和24年)にふたたび結核を発症し、本人曰く「この時はマイシンという薬がなかったら、私はおそらくあの世とやらに旅立っていた」という危機に陥ったが、前述のようにストレプトマイシンが手に入るようになったため助かり、その後1970年頃までは胸の痼疾に悩まされることがなくなった[26]

人気が高まる中、骨太な本格派探偵小説以外にも、やや通俗性の強い長編も多く執筆。4誌同時連載を抱えるほどの売れっぷりだったが、1960年代に入り松本清張などによる社会派ミステリーが台頭すると執筆量は急速に減っていった[注 8]1964年に『蝙蝠男』を発表後、探偵小説の執筆を停止し[3]、一時は数点の再版や『人形佐七捕物帳』のみが書店に残る存在となっていた。

1968年講談社の『週刊少年マガジン』誌上で、影丸穣也の作画により漫画化された『八つ墓村』が連載されたことを契機として、注目が集まる[8]。同時に、江戸川乱歩、夢野久作らが異端の文学としてブームを呼んだこともあり、横溝初の全集が講談社より1970年から1976年にかけて刊行された。また、1971年から、『八つ墓村』をはじめとした作品が、角川文庫から刊行され、圧倒的な売れ行きを示し、角川文庫は次々と横溝作品を刊行することになる。少し遅れてオカルトブームもあり、横溝の人気復活もミステリとホラーを融合させた際物的な側面があったが[注 9]映画産業への参入を狙っていた角川春樹はこのインパクトの強さを強調、自ら陣頭指揮をとって角川映画の柱とする。

1974年、角川文庫版の著作が、300万部突破。1975年、角川文庫の横溝作品が500万部突破。1976年、角川文庫の横溝作品が1000万部を突破。1979年、角川文庫横溝作品4000万部突破。その後横溝が亡くなる1981年までの間に計5500万冊を売り上げた[8]1977年には文壇長者番付で第3位となった[27][注 10]

1975年にATGが映画化した『本陣殺人事件』がヒット[注 11]。翌年の『犬神家の一族』を皮切りとした石坂浩二主演による映画化(「石坂浩二の金田一耕助シリーズ」参照)、古谷一行主演による毎日放送でのテレビドラマ化(「古谷一行の金田一耕助シリーズ」参照)により、推理小説ファン以外にも広く知られるようになる。作品のほとんどを文庫化した角川はブームに満足はせず、さらなる横溝ワールドの発展を目指す。70歳の坂を越した横溝も、その要請に応えて驚異的な仕事量をこなしていたとされる。1976年1月16日の『朝日新聞夕刊文化欄に寄稿したエッセイ「クリスティと私――晩年の創作力に改めて脱帽」の中で、前年に「田中先生[注 12]には及びもないが、せめてなりたやクリスティ[注 13]」という戯れ歌を作ったと記している。平櫛田中が100歳の誕生日を迎えたのちも創作意欲旺盛にして30年分の木工材料を買い込んだというエピソードを聞いてのことであった。

実際に、この後期の執筆活動により、中絶していた『仮面舞踏会』を完成させ、続いて短編を基にした『迷路荘の惨劇』、金田一耕助最後の事件『病院坂の首縊りの家』、エラリー・クイーンの「村物」に対抗した『悪霊島』と、70代にして4作の大長編を発表している。『仮面舞踏会』は、社会派の影響を受けてか抑制されたリアルなタッチ、続く2作はブームの動向に応えて怪奇色を強調、『悪霊島』は若干の現代色も加えるなど晩年期ですら作風の変換に余念がなかった[注 14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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