運営会社である横浜マリノス株式会社は、元々は日産自動車の全額出資により設立・運営されていた(当時の商号は日産フットボールクラブ株式会社)が、横浜フリューゲルスとの経営統合時に、フリューゲルスの運営母体であった全日空スポーツを合併しており、全日空スポーツの親会社である全日本空輸(ANA)が資本参加して「日産70%・ANA30%」の資本構成となった。2002年2月1日付でANA出資分を日産が買い取り、再び日産の完全子会社となったが、2005年2月1日付で第三者割当増資を行い、神奈川県に本社を置く7社[注 2] から0.98%ずつの出資を受けた[9]。
2014年7月、マンチェスター・シティFCを運営するシティ・フットボール・グループ(CFG)が日産自動車と「グローバルサッカーパートナーシップ」を締結[10]。これに伴い、日産自動車の保有株式(全体の約93%)のうち20%弱を取得し、日産に次ぐ第2位の株主となった[11]。なお、実際のマネジメントはCFGの全額出資により設立された日本法人「シティ・フットボール・ジャパン」となり[12]、2016年には同社社長である利重孝夫がチーム統括本部長に就任している。
なお、日産自動車株式会社は2016年に燃費試験の不正問題のため、経営難に陥っていた三菱自動車工業株式会社を傘下に収めて再建を行うことになり、これに際して、同じJリーグに加盟している浦和レッズとの「クロスオーナーシップ」の規制を記載した「Jリーグ規約第25条(5)」[注 3]に抵触するため、浦和のスポンサーに関しては三菱自工保有株式を三菱重工業株式会社と共同で立ち上げた持株会社「ダイヤモンドF.C.パートナーズ株式会社」[14] へ譲渡したうえで、三菱自工の株式保有率を下げることにより、このクロスオーナーシップの問題を解消させている。
歴史
前身詳細は「日産自動車サッカー部」を参照
1972年創部の日産自動車サッカー部が前身[1]。
1979年に日本サッカーリーグ(JSL)1部に昇格[1]。
1988年-1989年のJSL1部リーグ、JSL杯、天皇杯の当時の日本サッカー主要大会三冠を達成。1989年でこれまで長年チームを率いてきた加茂周が退任した。
金田喜稔、水沼貴史、木村和司、井原正巳、松永成立等、数々の日本代表を輩出してきた。読売サッカークラブとの対決は「黄金カード」と呼ばれた[15]。
1990年代
1991年
Jリーグ加盟[1]。この年で1989年から指揮を執っていたオスカーが監督を退任した。
1992年
清水秀彦が監督に就任。この年から開催されたナビスコカップは予選リーグ敗退。JSL終了後に柱谷哲二が退団。
1993年
日産FC横浜マリノスとして参加した天皇杯は、元旦に行われた決勝で読売クラブを下して優勝。
サントリーシリーズ(以降、1stステージ)は第10節まで5勝4敗1分で下位に低迷。新加入したラモン・ディアスの2試合連続ハットトリックの活躍もあり第11節から4連勝で首位鹿島アントラーズと勝ち点6差の2位に浮上。