横浜DeNAベイスターズ
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社会人野球としての大洋漁業野球部はまるは球団創立によって1949年11月30日をもって解散したが、社会人野球時代の選手には拘らないという中部兼市の方針でまるは球団に移籍出来なかった選手のために大洋漁業が呼びかける形で「全下関」チームが結成され、1951年まで活動していた[5]
下関時代(旧・大洋時代)
1950年 - 1952年

1950年シーズン開幕後に大洋ホエールズ(たいようホエールズ)に球団名を改称(3月に会社名を株式会社大洋球団に変更)し、読売ジャイアンツからベテランの中島治康平山菊二、大陽ロビンスから藤井勇林直明を譲り受け、宇高勲のスカウト活動により、東急フライヤーズから大沢清長持栄吉片山博ら、阪急ブレーブスから宮崎剛今西錬太郎らを補強してスタートしたものの、投手力の弱さはいかんともしがたく、リーグ参戦1年目は5位に終わり、1951年は6位、1952年は4位と伸び悩んだ。

特に、1950年は超長期遠征を強いられる状態となり、6月21日の兼六園球場を皮切りに、8月27日の後楽園スタヂアムに至るまでの延べ69泊70日・17会場で36試合を、北は旭川市から西は本拠地に近い徳山市まで、下関以外で消化するという異例の日程が組まれていた[7]

1951年、不採算から経営悪化した広島カープを吸収合併することも検討されたが、広島球団関係者や地元市民らの必死の存続運動もあって、広島との合併の話は立ち消えになった。1952年、9月7日の対松竹ロビンス戦(京都市西京極総合運動公園野球場)は、当時のセ・リーグ最長イニング記録である延長20回を戦い抜いたが、チームはサヨナラ負けを喫した。同年度から保護地域(フランチャイズ)制度が正式導入となり、山口県を保護地域と定めるも、下関での主催は18試合(年間ホームゲームは60試合)に留まった。その他の主催試合は徳山市営毛利球場3試合、防府市設野球場2試合、門司市営老松球場2試合、小倉・豊楽園球場3試合、平和台野球場5試合、長崎市営大橋球場3試合のほか、佐賀市営・熊本市水前寺野球場・大分県営でも開催し、山口県を含む九州で39試合(うち山口県内では3球場で23試合)の主催試合を行い、下関時代は下関を中心とする北部九州の球団という意味合いも強かった。その他は浜田市設、旧松江市営岡山県営球場甲子園球場川崎球場、熊谷市営、越後田、長岡、新潟白山、宇都宮総合、宮城球場、盛岡市営、弘前市営球場函館千代ヶ岱球場で開催された[8]
大阪時代(大洋松竹→洋松時代)
1953年1954年

1953年1月10日、「シーズン勝率3割未満の球団に対して処罰をおこなう」という前年の取り決め[注釈 3]の該当球団となった松竹ロビンス[注釈 4]と対等合併に合意、セ・リーグは6球団体制となる。大洋松竹ロビンス(たいようしょうちくロビンス)に改称し、翌1954年には通称名の洋松が入る洋松ロビンス(ようしょうロビンス)に改称した。

1953年シーズンは球団の合併・統合が決まりながらも、運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団の京都市で並立。球団運営も2社で1つの球団を運営するという変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属球団から支給された。主催試合は、名目上は下関市営球場衣笠球場を並列で本拠地登記したものの、実際には興行面の利点から大阪球場で行われた。なお衣笠球場は木造スタンドだったため、1951年中日スタヂアム全焼火災事故発生をきっかけに防災上の観点から所有者の立命館大学が使用禁止令を出したことから、合併後は行われていない[9]

1年目のシーズン終了後(12月16日)に球団運営会社が新設合併で正式統合され(当時の会社名は株式会社大洋松竹球団)、球団事務所も大阪スタヂアム内に置かれた。

大洋漁業と松竹以外の資本構成が複雑だったことから、新聞・雑誌によって「大洋」「松竹」「洋松」と呼称が一定していなかった。また、1953年2月8日の京都新聞は、この前日に新大阪ホテルで開催した大洋漁業と松竹の合同会見について「今回の合併は全面的な松竹の敗北であり、プロ球界の惑星と呼ばれた田村駒治郎(松竹球団オーナー)の発言力も、ロビンズのニックネームを遺したほどにしか過ぎない」と、事実上大洋が主導権を握った合併であるように受け止められている[9]

ロビンス時代の球団成績は1953年は5位。翌1954年は32勝96敗2分で最下位となり、優勝した中日ドラゴンズとは55ゲーム離され、5位の国鉄スワローズに23ゲームの大差を付けられる大惨敗であった。
川崎時代(新・大洋時代)

1954年12月11日限りで松竹は球団経営から撤退し、中部謙吉がオーナーとなる。球団名を大洋ホエールズに戻し[注釈 5]、1955年のシーズン開幕直前となる2月15日、保護地域神奈川県横浜市にあった横浜公園平和野球場(後の横浜スタジアム)へ移転した[10]。当初は東京移転を計画しており、東京都に本拠地を置く読売ジャイアンツ(巨人)からは了承を得たが、同じく東京を本拠地としていた国鉄が反対したため、横浜平和球場に本拠地を移転した[10]。しかし、同球場もスタンドが狭いなど、プロ野球チームが常時使用するには適さない球場だったため、大洋球団は「横浜は神奈川県内」「県内ならプロ野球をすでに開催している川崎球場に」と本拠地を拡大解釈し、同じ神奈川県内にある川崎球場川崎市川崎区)への移転を決定[10]。当時既に川崎球場を本拠地としていたトンボユニオンズパシフィック・リーグ)はこれに反発したが、当時の川崎市長金刺不二太郎が「セ・パの球団が市民に野球の神髄を披露してくれれば」と仲介し、川崎移転が決定した[10]。しかし、このように急な拡大解釈で本拠地移転問題を解決したため、球団がNPBに届け出た書類では本拠地は横浜、開催球場は川崎とされており、これが後の横浜移転時に横浜市と川崎市が対立する原因となる[10]。球団事務所は川崎市中原区に設置された。
1955年

川崎球場を本拠地とする新生・大洋ホエールズとして再スタートしたが、成績は31勝99敗の最下位。首位・巨人とのゲーム差はNPB史上最大記録となる61.5ゲーム差まで開き、5位・国鉄にも27ゲームの大差をつけられてシーズンを終えた[11][12]
1956年 - 1958年

1956年に明治大学から秋山登土井淳岩岡保宏黒木弘重沖山光利の5名が入団。同一校の選手が同一球団へ同時に5人も入団するのは極めて珍しく、彼らは「明大五人衆」と呼ばれて注目を集めた。エース・秋山登が毎年の酷使に耐え抜き、巨人から移籍した青田昇が三度の本塁打王を獲得。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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