横浜DeNAベイスターズ
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オフの12月25日に前年から2年連続で開幕投手を務めていた主力投手・中山裕章が横浜市内で女児への連続強制わいせつ事件を起こしたとして、神奈川県警察捜査一課金沢警察署)に強制わいせつ公然わいせつ容疑で逮捕され[24]、年明け後の翌1992年1月7日に球団を解雇された[25]。また、この事件に伴い、川島廣守セ・リーグ会長はNPB12球団に対し、「中山の更生が確認されるまで無期限に選手契約を自粛することを要望する」と声明を出したが[26]、この声明は2年後(1993年12月)に撤回され、中山は中日で球界復帰を果たした[27]
須藤→江尻監督時代
1992年

前述の事件で中山を欠いた状態で開幕を迎えたチームは低迷し、5月に須藤監督が休養・辞任し、ヘッドコーチの江尻亮が監督代行。のちに監督に昇格し、閉幕まで采配を振る。本人の希望で野手転向した石井琢朗がレギュラーを取る。盛田幸妃佐々木主浩のダブルストッパーが確立され、チームも復調し、混戦だったリーグ戦で1985年以来7年ぶりに広島に勝ち越し、優勝したヤクルトにも勝ち越す健闘を見せたが、5位に終わり、江尻の来シーズンの契約更新はなかった。新入団のラリー・シーツは打点王を獲得したが、退団。遠藤は引退。
横浜ベイスターズ時代

1993年4月1日、親会社の大洋漁業がCI実施により、マルハに改称することに伴い、ホエールズも地域に密着した市民球団を目指し、球団名を横浜ベイスターズに改称した。会社名も従来の株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズに変更。球団名から企業名「大洋」を外し、都市名の「横浜」のみを冠するという方針はCI導入決定時に決まっていたが、改称後の球団名は社内外では当初、愛称をそのまま使った「横浜ホエールズ」になるという憶測があった。しかし、中部慶次郎オーナーは、かつて大洋漁業の主力事業だった商業捕鯨の規制が強まっていることを指摘し、「ウチの会社はもうこれ以上、クジラばかりに頼るわけにはいかなくなった。だから愛称も変更しなければならない」と、社内に新愛称を検討するよう指示。その結果、愛称は「横浜ベイブリッジ」から取ったベイスターズとなった。

球団名変更に伴い、ユニフォーム・球団旗ペットマーク・マスコットキャラクターを一新。
近藤昭仁監督時代
1993年

選手育成に定評があった球団OB近藤昭仁が監督に就任[28]。ヘッド兼打撃コーチには近藤と西武時代一緒だった長池徳士[29]、投手コーチには近藤の早稲田大学の後輩高橋直樹、内野守備走塁コーチは山下大輔[30]、バッテリーコーチには大矢明彦が就任。新外国人選手としてグレン・ブラッグスロバート・ローズを獲得[28]。15試合を消化した時点で2勝13敗とつまづいた[28]。それでも徐々に巻き返し、7月13日のヤクルト戦に勝利した時点で36勝34敗の2位[28]。しかし、その後はブラックスが故障で離脱する不運もあり、翌日から10連敗を喫し、浮上することなくベイスターズ初年度は5位に終わるが[28]、巨人には1985年以来8年ぶりに勝ち越した。ブラッグスは29試合連続安打の外国人選手記録を塗り替えるも、後半は故障、ローズは打点王を獲得。また、石井は盗塁王。投手では野村が17勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得[28]。石井、進藤達哉が初の規定打席到達[28]。10月22日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に斉藤明夫が現役を引退した。この年のオフから始まったフリーエージェント制度により、シーズン終了後に近藤を師と慕う巨人の駒田徳広を獲得[28]。長年チームを支えた市川和正、高木豊、屋鋪要、山崎賢一、松本豊大門和彦が大量解雇された(市川と松本は現役を引退、高木は日本ハム、屋鋪は巨人、山崎はダイエー、大門は阪神に移籍)。
1994年

怪我から復活したブラックスが35本塁打を放ち、駒田は攻守で期待に応え、ローズも安定した成績を残すなど、6月下旬までは勝率5割近辺の戦いぶりを見せるが、前年同様シーズン途中でチームは失速。9月にやや復調し、勝率自体は前年を上回ったが[28]、結果的に1989年以来5年ぶりの最下位に終わるも[28]、優勝した巨人に唯一勝ち越した。前半戦を離脱していた守護神・佐々木主浩の穴を16セーブを挙げた盛田幸希の活躍が光った[28]
1995年

投手コーチに近藤の早稲田大学の後輩八木沢荘六が就任[31]。8月下旬まで巨人と3位争うも、直接対決で大きく負け越したことが響き、結果的に4位に終わるも[28]、1990年以来5年ぶりに中日に勝ち越し、1979年以来16年ぶりの勝率5割以上を果たす[28]。確かなチーム力の向上が見られた[28]。佐々木は32セーブを挙げて完全復活(最優秀救援投手賞)、リーグ最多の57試合に投げた盛田とダブルストッパーの必勝パターンを形成した[28]。三浦大輔が初めて規定投球回を投げ8勝、2年目の波留敏夫がレギュラーに定着して打率.310を記録、石井も自身初の3割を達成[28]鈴木尚典は規定打席にわずかに届かなかったものの、打率.283、14本塁打と活躍を見せた[28]。若手が成長し、手応えを感じていた近藤だったが、オフに志半ばで解任された[28]
第1次大矢監督時代
1996年

バッテリーコーチの大矢明彦が監督に就任。盛田を先発、五十嵐をセットアッパー、内野手の石井を三塁から遊撃、進藤を遊撃から二塁、ローズを二塁から三塁にコンバートするなど、大改革をする。4月を首位で折り返し、「セ・リーグの台風の目」と評されながらも、5月以降は失速し、セ・リーグ5球団に負け越し、5位に終わった。
1997年

権藤博を一軍バッテリーチーフコーチに迎える。シーズン序盤は下位に低迷していたが、選手の実績より好調を優先した起用をし始めると、チームは浮上し、シーズン後半に首位のヤクルトを脅かす急追を見せた。しかし、9月2日、首位ヤクルトとの直接対決で石井一久の前にノーヒットノーランで敗れると、勢いも止まり、2位に終わったが、1990年以来7年ぶりのAクラス入りを果たした。広島に1992年以来5年ぶりに勝ち越したが、この年Bクラスだった巨人と阪神に負け越した。オフに大矢は2年契約を終えて監督を辞任。
権藤監督時代
1998年

シーズンスローガン:「GET THE FLAG!」

権藤が監督に昇格。抑えの佐々木を不動の中心とする投手陣と一度打ち始めると止まらない「マシンガン打線」がかみ合い、10月8日の対阪神戦(阪神甲子園球場)に勝利したことで、阪神に1993年以来5年ぶりに勝ち越し、1960年以来38年ぶりのリーグ優勝[注釈 13]を果たした[注釈 14]


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