横浜DeNAベイスターズ
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注釈^ 球団およびNPBでの英語表記は会社名以外を全て大文字にした「YOKOHAMA DeNA BAYSTARS」。
^ 2000年から2010年までは、二軍の独立採算化と一軍との差別化を目的に二軍独自の球団名として、「湘南シーレックス」という名称が使用されていた。2011年からは再び一軍と同じ球団名となっている。
^ 具体的に「解散」などの処罰内容を決めていたわけではなかったが、下位球団を整理する意図は背景に存在した。
^ 球団史では傍系扱いとなり、
大東京軍(社名:大日本野球連盟・東京協会、経営:國民新聞社・1936年 - 1937年)
→ライオン軍(経営:共同印刷田村駒商店、スポンサー:ライオン歯磨本舗・1937年-1940年)
→朝日軍(社名:朝日野球倶楽部・1941年 - 1945年)
→パシフィック(1946年)
→太陽ロビンス(スポンサー:太陽レーヨン・1947年)
→大陽ロビンス(1948年 - 1949年)
→松竹ロビンス(スポンサー:松竹・1950年 - 1952年)
以上の球団史や結成年度・優勝回数・その他記録は一切カウントされない。このため本球団は初代セ・リーグ優勝球団の後身でありながら「初代セ・リーグ優勝チーム」と名乗ることができなくなっている。
^ 合併時に創立年や各種記録を、旧大洋側の存続扱いとしていたため、球団の系譜として連続したものとなった。もしも合併時に大東京から松竹の系譜を存続扱いとしていたら、旧・大洋と新・大洋が経営者と名称が同一なだけで連続性のないものとなるところだった。
^ 『スポーツの今日を刻む?スポーツジャーナリスト21人からのメッセージ?』に横浜市への球場使用料は1試合2,000万円とある。また、同著に元・球団社長の大堀隆が語ったとして「98年にベイスターズがセ・リーグで優勝し、日本シリーズも制したとき、同時期にかながわ・ゆめ国体も開かれていたんです。どちらが地域=横浜市の活性化に力があったか。私はベイスターズだと思う。地下街に佐々木の大魔神神社できたくらいですから。国体には何年にもわたって何千何百億円ものお金が使われたはずです。それにくらべて、せめてベイスターズには横浜球場の使用料を安くしてもらいたいと希望するのですが、それができない。市に言わせると、もし安くしたら必ず市民から、たかが一私企業のための利益をはかり、結局は税金を使うことになるようなことは許せない、と抗議の電話が殺到するだろう、というのです」とある[16]
^ 横浜スタジアム建設の際、一口250万円の市民株主800口によるオーナーズ・クラブに内野席シーズン・シートを45年間与えたため、2023年まで(株)横浜スタジアムが運営(指定管理者)する球場を専用球場とすることが規定されている。このオーナーズ・クラブは球団総務部内のオーナーズ・クラブ事務局が管理している[17]
^ このほかに、第三セクターである(株)横浜スタジアムとの間に契約を交わし、20年契約で入場料収入の29%、シーズン席の収入の30%と販売経費を球団から球場へ払い、球場内広告に対して5,000万円、物販協力金として350万円を球場から球団へ支払うというものだった。1978年(初年度)の横浜スタジアムは広告収入5億3,300万円、物販収入9億2000万円。1993年は球場収入13億9200万円、広告収入13億9,300万円、物販収入15億6500万円で、経常利益は13億9600億円、資産は現金・預金・有価証券で64億3800万円であった。この契約は現在も延長されているのかは不明。
^ 横浜大洋友の会。球団営業部主導の横浜ベイスターズ全国ファンクラブ→B☆SPIRITとは別組織。友の会はのちに横浜ベイスターズ友の会→横浜DeNAベイスターズ友の会と名称を変更し、2013年にはB☆SPIRITと統合し、「B☆SPIRIT友の会」となった。
^ セ・リーグ既存の6球団では最後の達成[19]
^ 近鉄が1980年にプレーオフを優勝した時の球場は設備の都合上、当時の本拠地・藤井寺球場ではなく、大阪球場行われたが、主催試合であることに変わりはないため、厳密にいえば大洋のみが「本拠地で1度も年間勝率1位によるリーグ優勝をしていない唯一の球団」になっている。
^ 近鉄のリーグ優勝は1979年1980年共にプレーオフ優勝である。日本ハムのリーグ優勝は1981年は当時の本拠地・後楽園球場プレーオフ優勝、1962年東京スタジアムで行われた大毎オリオンズとの試合中にダブルヘッダー1試合目だったマジック対象チームの南海ホークスが近鉄に敗れたことによるものである[注釈 11]
^ 37年間リーグ優勝ができなかったのは日本球界最長記録である。
^ 首位で全日程を終えるのも、1964年以来34年ぶり。同年は全日程終了後、阪神に逆転され優勝を逃したので、奇しくもその雪辱を果たす格好となった。
^ 2003年にダイエーの.297(ただしDH制による記録)に抜かれ、現在はセ・リーグ記録。横浜の投手の打撃成績を除いた野手のみの打率は.303。
^ 川村を最後に、2023年に東克樹が15勝を挙げるまでは15勝以上挙げた投手は現れなかった。
^ ただし、日本ハムの方はプレーオフ優勝を当時の本拠地・後楽園球場で飾っている。
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