明治20年代になると、横浜港の拡大と充実を目指して港湾施設の整備が行われる。1888年(明治21年)、外相大隈重信が首相・伊藤博文に横浜港の港湾設備を整備するよう建言しイギリス陸軍工兵大佐・パーマーの監督下、翌年より築港工事が始められた。この第1期築港工事では、内防波堤と鉄桟橋(大さん橋)が造られた。
明治30年代?大正時代には、日清戦争(1894年(明治27年))を経て東洋最大の港となった神戸港に対抗すべく、埠頭や海陸連絡施設など大規模な港湾施設の建設が積極的に行われた。1899年(明治32年)には、海陸連絡施設の整備を目指して第2期築港工事を開始した(1917年(大正6年)まで)。赤レンガ倉庫と新港埠頭は、この時代に横浜市が政府に建設を働きかけて完成させたものである。建設費用はアメリカに支払った下関戦争の賠償金がアメリカから返還され、これを充てた。以後、現在に至るまで港湾施設の改良工事は度々行われている。
1916年(大正5年)、入港した「ハワイ丸」の乗客から全国にコレラが拡大。死者は7400人を超える。感染防止のために本牧海岸から出漁、遊泳が禁止される[4]。
1923年(大正12年)、関東大震災により横浜港は壊滅的な被害を受ける。復興事業は市長・有吉忠一の指揮下、神奈川県と横浜市、生糸商などの横浜商人をはじめとする市民らにより国の力も借りて進められた。この事業により生糸検査所、ホテル・ニューグランド、神奈川県庁本庁舎(キングの塔)、横浜税関庁舎(クイーンの塔)や瓦礫を利用して造成した山下公園など今の横浜を代表する建築、名所が造られた。事業のための巨額の資金はアメリカでドル建て市債を発行して賄ったが、この膨大な負債はその後長く市財政を圧迫した。
昭和に入ると京浜工業地帯が形成され、その発展に伴い横浜港は生糸貿易港から工業港となりつつあった。1935年(昭和10年)、日産は横浜市から買収した埋立地に本社工場を完成させて自動車の生産を始めた。昭和初期は製鉄、造船、自動車、電機などの軍需産業が発展し横浜港はその重要な拠点となった。1941年(昭和16年)12月には太平洋戦争が始まり、横浜は翌1942年(昭和17年)4月18日にアメリカ軍から初空襲を受けた(ドーリットル空襲)。また同年11月には横浜港ドイツ軍艦爆発事件が発生した。その後、終戦までに横浜は30数回の空襲を受けるが、臨海部の工場や港湾施設の被害は比較的軽かった。 1945年(昭和20年)に終戦を迎え、横浜港と横浜の市街地(関内地区)は連合国軍に接収された。特に横浜港の港湾施設はその90%が接収され、横浜の戦後復興を遅らせた。朝鮮戦争では、アメリカ第7歩兵師団が1950年9月11日に横浜港で乗船し、4日後の仁川上陸作戦に加わった[5]。 1952年(昭和27年)、講和条約が発効し横浜港の接収が解除され始める(現在も在日米軍が使用している瑞穂埠頭(ノースピア)など一部除く)。先立って1950年(昭和25年)に接収解除された高島埠頭を足がかりに京浜工業地帯と横浜の復興は始まり、外国貿易も回復し始めた。輸入の激増により、横浜港の外国貿易量は1957年(昭和32年)には戦前のピークである1937年(昭和12年)を上回る。横浜港の輸入品は終戦直後は食料品が占め、後には石油、金属、鉄鉱石、石炭が増加。
戦後