横浜港
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ジョセフ・ヒコこと浜田彦蔵もその一人で、サンフランシスコの出資者と組んでいち早く商売を始めた[3]
開港後明治時代の横浜港

開港当時、外国商館への輸出品の販売は「売込」、輸入品の購入は「引取」と呼ばれ、それぞれ売込商人・引取商人という横浜商人を通して取引が行われた。明治初期までの代表的な輸出品は生糸であり、輸入品は綿糸・織物と砂糖などである。特に生糸輸出は昭和恐慌期に至るまで綿花輸入と並ぶ最大の貿易品であり、横浜は生糸貿易港として世界に名を馳せた。貿易が拡大して外国人居留地での取引が活発になると、その玄関口となる横浜では流入する外国の文化・技術がいち早く採り入れられた。一方、当時の神奈川県知事井関盛艮は、それらの外来文化に接する横浜の精神的支柱とするために神社信仰の確立が必要と考えたため、1870年4月野毛山に伊勢山皇大神宮を創建し、横浜の街と港の総鎮守とした。

西洋人商人にとっての対日貿易は、開港当初は非常に儲かるものであった。その後、1870年頃まで一時下降したものの再び盛り返し、1876年の居留地の取引高は約5800万円となった[3]。西洋諸国から日本への輸出品は兵器や船、繊維製品が主で、年の1879年にはオーストラリア産のウサギが人気を集めた[3]。また、海産物などの乾物を日本で買い、中国で販売するビジネスも西洋人が行った[3]イギリスが覇権を握っていたインドや中国(香港)と違って、多くの欧米諸国(不平等条約締結国)が拮抗していた日本では有効な換金システムがなかったため、1885年の日銀兌換券発行まで、金銭のやり取りは混乱を極めた[3]

明治20年代になると、横浜港の拡大と充実を目指して港湾施設の整備が行われる。1888年(明治21年)、外相大隈重信首相伊藤博文に横浜港の港湾設備を整備するよう建言しイギリス陸軍工兵大佐・パーマーの監督下、翌年より築港工事が始められた。この第1期築港工事では、内防波堤と鉄桟橋(大さん橋)が造られた。

明治30年代?大正時代には、日清戦争1894年(明治27年))を経て東洋最大の港となった神戸港に対抗すべく、埠頭や海陸連絡施設など大規模な港湾施設の建設が積極的に行われた。1899年(明治32年)には、海陸連絡施設の整備を目指して第2期築港工事を開始した(1917年(大正6年)まで)。赤レンガ倉庫新港埠頭は、この時代に横浜市が政府に建設を働きかけて完成させたものである。建設費用はアメリカに支払った下関戦争の賠償金がアメリカから返還され、これを充てた。以後、現在に至るまで港湾施設の改良工事は度々行われている。

1916年(大正5年)、入港した「ハワイ丸」の乗客から全国にコレラが拡大。死者は7400人を超える。感染防止のために本牧海岸から出漁、遊泳が禁止される[4]

1923年(大正12年)、関東大震災により横浜港は壊滅的な被害を受ける。復興事業は市長・有吉忠一の指揮下、神奈川県と横浜市、生糸商などの横浜商人をはじめとする市民らにより国の力も借りて進められた。この事業により生糸検査所、ホテル・ニューグランド神奈川県庁本庁舎キングの塔)、横浜税関庁舎(クイーンの塔)や瓦礫を利用して造成した山下公園など今の横浜を代表する建築、名所が造られた。事業のための巨額の資金はアメリカでドル建て市債を発行して賄ったが、この膨大な負債はその後長く市財政を圧迫した。

昭和に入ると京浜工業地帯が形成され、その発展に伴い横浜港は生糸貿易港から工業港となりつつあった。1935年(昭和10年)、日産は横浜市から買収した埋立地に本社工場を完成させて自動車の生産を始めた。昭和初期は製鉄造船、自動車、電機などの軍需産業が発展し横浜港はその重要な拠点となった。1941年(昭和16年)12月には太平洋戦争が始まり、横浜は翌1942年(昭和17年)4月18日アメリカ軍から初空襲を受けた(ドーリットル空襲)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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