入港船舶数は全国17位(28,995隻、2020年)、海上出入貨物量は全国2位(9362万トン、同)、貿易額は全国3位(1兆1021億円、同)。
歴史
神奈川湊日本海軍水路寮作成海図「武藏國横濱灣」の一部(明治7年(1874年)刊行)。神奈川湊沖は遠浅で、横浜港沖は水深が急速に深くなっている。
横浜港域における歴史は鎌倉幕府の国際玄関港として繁栄していた六浦湊(現在の横浜市金沢区)の存在にまで遡ることが出来るが、原型は神奈川湊(かながわみなと)の方にあると考えられている。神奈川湊は、武蔵国橘樹郡神奈川(現在の神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町、青木町付近)にあった。
神奈川湊は中世から東京湾内海交通の拠点の一つとされ、鎌倉幕府が置かれた13世紀以降、湾内の物流が活発になると共に神奈川湊も発展して行く。記録によれば室町時代の1392年(明徳3年/元中9年)の段階で、東京湾の主要積出港の一つとして機能していたことが明らかになっている。神奈川湊とその湊町は鎌倉時代には鶴岡八幡宮が支配し、室町時代には関東管領・上杉氏の領地となった。その後、戦国時代には後北条氏の家臣である多米氏が支配。小田原征伐後、1590年(天正18年)に徳川家康が江戸に入府するとその支配下に入った。1601年(慶長6年)、神奈川湊の湊町は神奈川宿として東海道の宿場となり以後、江戸幕府の直轄地とされた。
江戸の発展に伴い全国各地からの物資輸送と江戸湾(東京湾)内海交通が活発となり、神奈川湊など湾内の各湊でも廻船業(廻船問屋)を営む者が現れた。 1853年(嘉永6年)、アメリカ合衆国のペリー提督率いる艦隊(黒船)が浦賀沖に現れた(黒船来航)。翌1854年(嘉永7年)には再度来航して幕府の態度が表明されるまでの間、六浦湊
黒船来航と横浜開港
幕府は松代藩士・佐久間象山、外国奉行・岩瀬忠震らの意見により東海道に直結する神奈川宿・神奈川湊を避け、対岸の横浜村に開港場を新設することを決定。対して諸外国の公使はあくまで条約の批准にこだわり神奈川の開港を求め、横浜の利便性は認めつつも神奈川宿周辺に領事館を開いた。しかし開港後は居留地での取引が活発化して神奈川湊は衰退し、居留地が外国人向けに整備されるなど既成事実が積み重なり、諸外国も横浜開港を受け入れた。
横浜は大岡川によって土砂が堆積するという不利点があったものの、南の本牧台地が風を防ぐ利点があった。横浜沖はすぐに水深を増す浚渫工事が施された。当時の横浜村は砂州の上に形成された半農半漁の郷村であった。開港に相前後して居留地、波止場、神奈川運上所(税関)、神奈川奉行所などが整備され、東海道から横浜村に至る脇往還(よこはま道)が短期間で造成された。