横浜市
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同年8月の終戦によりイギリス軍アメリカ軍ソビエト連邦軍を中心とした連合国軍が進駐し、横浜の中心市街地と横浜港は接収され、都市機能は麻痺した[注釈 12]。連合国軍は、横浜税関ビルに連合国軍最高司令官総司令部(GHQ、後に東京の第一生命ビルに移転)と太平洋陸軍総司令部(AFPAC)を置き、軍事拠点とした。戦争末期に連合艦隊司令部など(日吉台地下壕)が置かれた港北区日吉慶應義塾大学キャンパスもアメリカ軍に接収された[65]。空襲とそれに引き続く接収により、横浜の復興は大幅に遅れた。

1950年(昭和25年)、横浜国際港都建設法が制定され、復興に向けた取り組みが本格化する。1951年(昭和26年)には、サンフランシスコ講和条約が締結され日本の連合国による占領体制が終わり、新たに市長となった実業家で元貴族院議員の平沼亮三の下、接収解除に向けて動き始めた。また、この年には、横浜港の管理が国から市に移管された。条約が発効した翌1952年(昭和27年)以降、大さん橋や山下公園などが次々と接収解除された。1957年(昭和32年)には横浜国際港都建設総合基幹計画が決定され、今日に至るまでの都市計画の骨子となった。なお市域には150万m2余の在日米軍施設がある(2021年(令和3年)1月1日現在)[66]
戦後の発展

1956年9月1日、制度の開始とともに、政令指定都市に指定される。このころから、相模鉄道を中心とした横浜駅西口の開発が始められた。1959年に行われた開港100周年記念祭では、横浜公園平和野球場(現・横浜スタジアム)で、横浜出身の美空ひばり草笛光子が3万人の観客を前に歌った。1964年5月には根岸線(桜木町 - 磯子)が開通し、同年10月には東海道新幹線の開業に伴い、横浜線との交点に新横浜駅が開設された。横浜駅西口地下街が完成したのもこの年で、横浜駅西口は急速に発展し始めた。また、1960年代後半には中区の元町商店街が活況を呈し、元町ブランドで固めた山手の女子高生たちのファッションは、後に1970年代後半のハマトラ(横浜トラディショナル・ファッション)ブームへと繋がっていく。また、1966年には東急田園都市線溝の口駅-長津田駅)が開業し、今まで寒村であった市北部が東京のベッドタウンの多摩田園都市として発展し始めた。開業時の横浜市営地下鉄車両

1963年、日本社会党衆議院議員であった飛鳥田一雄が市長となり、「革新首長」のリーダー的存在となった。1965年1月、飛鳥田市政下、横浜市六大事業と呼ばれる都市計画プロジェクトに着手した。これは、(1) 横浜みなとみらい21に代表される都心部強化、(2) 金沢地先埋立事業による中小企業の集約化、(3) 港北ニュータウンの建設によるスプロール現象の抑制と良質な住宅街の提供、(4) 横浜市営地下鉄である高速鉄道建設事業、(5) 高速道路建設事業、(6) 横浜ベイブリッジ建設の6事業からなり、都市基盤の整備と中枢管理機能の充実を図るものである。

まず、高速道路建設に取りかかり、1968年には神奈川県道高速横浜羽田空港線浅田 - 東神奈川)が開通する。1972年には横浜市営地下鉄上大岡駅 - 伊勢佐木長者町駅)が開通した。また、1979年には横浜横須賀道路日野―朝比奈間が開通し、1981年には狩場―日野間を、1982年には朝比奈―逗子間と逗子―衣笠間を供用開始した。港北ニュータウン(都筑区)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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