観光地としても人気があり、横浜中華街や山下公園などがある関内地区を筆頭に、横浜みなとみらい21地区や山手地区などが有名である。また、人工海浜の海水浴場を併設する海の公園や、八景島シーパラダイスという水族館もあり、古くからの観光地としては三溪園などがある。食の名物は洋食、横浜中華街の中華料理、崎陽軒のシウマイ弁当、横浜家系ラーメン、サンマーメンなどがある。
市内北東部の鶴見区・神奈川区・中区・磯子区・金沢区などのの臨海部を中心に、隣接する川崎市や東京都大田区などとともに京浜工業地帯の一角を成しており、多数の重化学工業の工場や大小様々な事業所が立地している工業都市でもある。2017年度の工業品出荷額では豊田市、川崎市に次いで全国3位である[14]。近年では日産自動車やいすゞ自動車本社の本社移転、部品メーカーの本社・研究開発施設(R&D)といった自動車関連企業の集積が進んでおり、自動車産業都市という新たな側面も持つ[15]。
2010年代以降、首都直下型地震発生の危険性が高まっている。2018年に今後30年間で震度6弱以上の揺れに見舞われる確率が82%と算出されており、地震学的には横浜市全体が危険地帯とされている[16]。 横浜市域は、南に接する鎌倉に鎌倉幕府が置かれた鎌倉時代から本格的に開発され始めた。江戸時代には江戸幕府が置かれた江戸に近いため、幕府直轄地(天領)や旗本知行地が大部分を占め、藩は小規模な六浦藩(金沢区)のみが置かれた。また、大きな港を持たない鎌倉幕府の海の玄関口として六浦湊(金沢区六浦)が、江戸湾(東京湾)内海交通の要衝として神奈川湊(東海道の宿場町である神奈川宿)が、早くから栄えた。江戸時代末期には、神奈川沖、小柴(旧、六浦湊外周部)で締結された日米修好通商条約により、「神奈川」を開港場にすることが定められた。実際には神奈川湊の対岸にある横浜村[注釈 4](当時)に新たに港湾施設が建設され、短期間に国際港の体裁を整えた。開港以前は横浜村一帯は単なる漁村にすぎなかったが[19]、1859年7月1日に開かれた横浜港は「金港」とも呼ばれ、横浜港開港以降は生糸貿易港、商業港、旅客港として、また工業港として近代的な都市へと急速に発展し、横浜市を日本を代表する国際港湾都市の1つへと発展させる礎となった。欧米から多くの舶来品がもたらされ、神戸港を擁する神戸市などどもに欧米文化の発信基地となった。ガス灯やアイスクリームなどは横浜が発祥の地である。元来は別々の地域であった「神奈川」と「横浜」ではあるが、横浜市の急速な拡大・発展に伴い、神奈川は現在の神奈川区として横浜市に組み込まれながら一体的な市街地を形成していった。 1889年4月1日に市制が施行され、横浜市となった[注釈 5]。市域の面積は、市制施行時には横浜港周辺の5.4 km2 にすぎなかったが、6次にわたる拡張と沿岸部の埋立てにより437.71 km2 (2020年)となっている。1922年には東京市・名古屋市・京都市・大阪市・神戸市とともに六大都市に指定された。1923年に発生した関東大震災では震源により近かったことから東京以上の被害を受け、市街地は壊滅したが震災の復興計画で山下公園などが建設された[20]。1927年の区制施行で市域は5区に分けられ、周辺町村の合併と区域の再編を経て、行政区の数は18区となっている。市制施行時の横浜市の人口は約12万人だったが、その後は東京都市圏の拡大と東京一極集中の影響で第二次世界大戦中の一時期を除いて増加の一途をたどり、現在では約377万人となった。これは日本の市区町村では最も多く、人口集中地区人口も東京23区(東京特別区)に次ぐ。これは市の面積が大阪市の2倍程度、名古屋市の約1.5倍程度と広大なこと、市内に山地や湖など居住に適さない地形がほとんどないこと、市内全域が東京都心への通勤圏内であるために東京のベッドタウンとして市内の多くが宅地化されていることといった要因によるものである。
沿革