横浜中華街
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1859年安政6年)、横浜が開港すると外国人居留地(一種の租界)が造成され、欧米人とともに多数の中国人買弁(中国人商人や取引仲介者)や外国人外交官の雇い人が来住した。当初、彼らは香港や広東から来ていたため、広東省出身者が多かった[1]。その後すぐに横浜と上海、イギリスの植民地の香港の間に定期船航路が開設されると、中国人貿易商も来住し、居留地の一角(現在の山下町)に関帝廟、中華会館、中華学校などを建てていった。これが横浜中華街の原型である。

初期の埋め立て地「横浜新田」の海岸線沿いに建てられたため、この地域のみ区画が約45°ずれている[2]。この頃の商店は日用雑貨店、衣料品店、食料品店などの店が大半で、中華料理店は多くなかった。1872年明治5年)には、柳麺(lau min、ラウミン)の屋台が出始めていた[1]
孫文の亡命の地

1894年(明治27年)に日清戦争が勃発すると中国人の多くが帰国してしまうが、戦争が終わり、1899年(明治32年)に条約改正により居留地が廃止されると、中国人は職業制限を受けたものの、居留地外にも住むことを許された。袁世凱に追われ大日本帝国に亡命した孫文もこの地で華僑にかくまわれながら革命活動を続けている。

ただしこの時期は単に外国人街であり、特に中華街というわけではない。例えば1921年大正10年)の横浜市商工案内によれば、この地区の総店舗数263軒中、日本人店149軒、欧米人店79軒に対して中国人店35軒であり、そのうち中華料理店はわずか5軒であった。一方1910年(明治43年)の『名誉鑑』では、有名な広東料理店として5軒を挙げており、1900年(明治33年)以降一挙に中華料理店が増えた(『横浜中華街』p83)。
「南京街」

1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災でこの地区は大打撃を受けて瓦礫と化した。欧米人の多くが帰国してしまったため、やや中国人中心の街へと変っていった。1930年代には震災から完全に復興し、中国人を中心とした街として賑わいを見せた。

1932年昭和7年)の『横浜市史稿・風俗偏』では南京町で先ず目に入るのは料理店であるとし、何々楼と称する料理店が20軒あまりに達したとしている。1934年(昭和9年)7月23日の『横浜貿易新報』では「南京街の支那料理」を横浜自慢として紹介している。しかし、1937年(昭和12年)7月7日に勃発した日中戦争で多くの華僑が帰国し、閉店した店も多い。

第二次世界大戦後の復興期に横浜港は賑わい、イギリス植民地である香港との往来も復活した。横浜市街地は連合国軍の空襲により焦土と化し物資不足に見舞われていたが、横浜中華街は戦勝国である中華民国からの物資に恵まれ[3]1946年(昭和21年)2月20日の『神奈川新聞』によれば、中華街で営業していた飲食店は96軒であった。終戦直後は豊富な物資を背景とした、闇市街としての役割を果たしたが、徐々に物資が行き渡るようになり、数年で闇市としての役割は終了した[3]

それと引き換えに、山下公園周辺に駐留する連合国軍兵士や外国人船員が増加し、街も賑わいを見せた[3]。しかしながら1950年代初頭に朝鮮戦争が休戦したことに伴い在日米軍基地も縮小され、人通りの少ない静かな町へと変貌した[3]。街灯もない街に日本人は良いイメージを持たず、日本人が寄り付かない街となっていた[3]
「中華街」

1953年には、横浜市と横浜商工会議所が中心となり、「チャイナタウン復興計画」が策定された[3]1955年(昭和30年)には中華街大通りの入り口に「牌楼門」が建てられ[3]、牌楼()の上「中華街」と書かれたことで、それまでは南京町と呼ばれていたこの街が次第に「中華街」と呼ばれるようになった[4]

1964年には石川町駅が開業して、多くの観光客が来るようになった一方、海上輸送がコンテナ化されたことで、外国人船員は徐々に姿を消していった[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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