横断歩道橋
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日本では昭和30年代の高度経済成長期においてモータリゼーションが進展し、自動車の保有台数が急増した。これに伴い交通事故による死者数が1万人を超え、「交通戦争」と呼ばれる状況に陥り、なおも死者数は増加する傾向にあった[14]。交通弱者である歩行者を事故から守るために、歩行者と自動車の各々の交通を分離(歩車分離)出来る歩道橋が設置されるようになった。日本初の歩道橋(愛知県西枇杷島町横断歩道橋

1959年(昭和34年)6月27日愛知県西春日井郡西枇杷島町(現:清須市)に日本で初めての歩道橋「学童専用陸橋」(西枇杷島町横断歩道橋)が設置された[7][15][16][17]名古屋市に隣接する西枇杷島町は、当時全国有数の交通量があった国道22号(現:県道名古屋祖父江線)が町の中心を貫いており、交通事故が毎日のように発生し、近隣の小学校と中学校への通学児童・生徒も自動車にはねられる事故に遭うことが少なくなかった[18]。その対策として考案された、全国初の横断歩道橋が総工費320万円をかけて建設される運びとなった[18]。当時は歩道橋という用語はなく「学童専用陸橋」と名付けられ、鉄筋コンクリート製の横断歩道橋が完成した時には町長をはじめ、全町民をあげて渡り初め式(学童専用陸橋竣功式)も執り行われた[18]。この西枇杷島町横断歩道橋は、竣工から50年が経過した2010年平成22年)4月10日に、道路拡張と老朽化のため、市民ら1000人以上が参加して渡り納め式が催されたのちに取り壊された[18][19][20]

ただし、大和ハウス工業が建設して大阪市に寄贈した大阪駅前の歩道橋が日本初と見なされた[21]ことから、同歩道橋が完成した1963年(昭和38年)4月25日に因んで4月25日が「歩道橋の日」とされている[22]

日本に横断歩道橋が登場した当時、自動車を優先した人間軽視の施設だとして苦情も続出したと言われる[17]。日本初の横断歩道橋・西枇杷島町横断歩道橋は、「交通戦争」と呼ばれた時代の中で、交通安全施設としての絶大な効果が評価されて、1962年(昭和37年)頃から隣接する岐阜県岐阜市や、そのほかの各大都市でも歩道橋の建設が始まるに至った[14]

東京都では、東京オリンピック1964年(昭和39年)に開催することが決まった1959年(昭和34年)、学童擁護員(緑のおばさん)を導入して子供たちの交通事故を防ごうとした[15]。しかし、より安全な歩道橋を導入することになり、東京オリンピックの約1年前にあたる1963年(昭和38年)9月10日五反田駅前に都内初の歩道橋が設置された[15]。また、西枇杷島町横断歩道橋が出現する3年前の1956年(昭和31年)に、渋谷駅前に全長95 m、幅8 mの道路上をまたぐ歩廊が完成しているが、駅舎から商業ビルとその近くの道までを連絡することを目的として民間企業が建設したものであることから、日本の横断歩道橋第1号とは見なされていない[14]

1960年代半ばから1970年代にかけての「大量架橋時代」には、自動車を優先する思想への批判や、日照権侵害などを理由とする反対運動、住民訴訟もあった。このため上部中央に広場やベンチを設けた蓮根歩道橋(東京都板橋区)のように、通行者の利便性や景観に配慮した歩道橋も一部に造られた。

横断歩道橋は交通事故防止のために大きく貢献してきたが、身体障害者や高齢者に対して不自由なものであったことからバリアフリー化が叫ばれるようになった。1993年(平成5年)、日本で最初のエレベータ付き横断歩道橋が神奈川県川崎市国道15号(第一京浜)と市役所通りの交差点で誕生した[23]。58 mと55 mの2本の歩道が中央で交差するスクランブル方式でエレベータを4基備えた横断歩道橋は「ハローブリッジ」と名付けられ、幅員7 mとゆとりあるものである[23]。エレベータ付き歩道橋は大都市を中心に普及していった[23]

横断歩道橋の総数は、国と地方自治体の設置分を合わせると2012年時点で1万1699橋だが、エスカレーターやエレベーターがない歩道橋は横断歩道に比べて昇り降りの負担が大きい。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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