実母と義父の離婚後は、弟2人は児童養護施設に預けられたものの、「僕がしっかりしないと弟たちの将来がむちゃくちゃになる」「(弟)2人が独り立ちするまで支えなければ」との思いから、下の弟が大学進学を志望した時の学費は横山が出した[37]。その後、上の弟は苦難があったものの結婚し、下の弟は税理士という夢を叶えた[47]。 2010年5月16日、実母が虚血性心疾患により、50歳で急逝[39][43][48]。横山が29歳の時だった[47]。 自身には青森県でのソロライブ開演4時間前に訃報が伝えられ、大きなショックを受けたものの、ライブは予定通り開催した[39][48]。このことについて、事務所側にも「どうする?」と何度も聞かれたが「大丈夫だから」と言い、楽屋でも本番中も泣き崩れそうになったが「迷いはなかった」「僕が笑ってステージに立たないで家に帰ったら、そんなのオカンもイヤやろうな」と自身を奮い立たせ、ライブをやり切ったと語っている[48]。また、ツアーでは、母親との思い出を元に自身が作詞した楽曲「オニギシ」も披露しており[43][39]、当日は歌う前に「僕は家族が大好きです。親に感謝は忘れないでください。親がいることは当たり前ではないですから」と語っており、これは自身が母親に対して「ありがとう」という思いを伝えられないまま死別したため、そのことをとても悔やんでおり、「ファンの人には、そんな思いさせたくない」と考えたからである[48]。その後も公演スケジュールを予定通りにこなし、すすり泣く客席に「しんみりするなよ」と笑いかける場面もあった[49]。 翌5月17日には、青森で関西テレビ『関ジャニ∞のジャニ勉』のロケに参加する予定だったが、ロケは安田と丸山に任せ欠席し、母親の通夜に参列した[39]。18日の告別式には関ジャニ∞のメンバーも全員参列[39][50]。19日には大阪で『ジャニ勉』の収録から仕事復帰した[39]。 母親の死に対して横山は「人生で一番泣いた。後にも先にもあんな辛い事は無い」と心境を語っている[50]。 告別式に関ジャニ∞のメンバー全員が参列したことに対して、「めちゃくちゃ嬉しかった」「みんなが来てくれた事が凄い誇れた」と語っており、その葬式の帰りに丸山の家に集まり、様々なことを話す中で、大倉曰く「俺らはメンバーであり仲間やけど、これからは俺らが横山くんの家族にもならなあかん」と話し合ったという[50]。 母親の死去により、上の弟の記憶に障害が生じた[47][51]。詳細は「#弟の記憶喪失」を参照 母親は亡くなる1週間ほど前に大阪城ホールでのソロライブを観に来て非常に喜んでいたそうで、横山は「会場には1万人以上のお客さんが入っていて、それをお母さんに見せてあげられたのは自分なりの親孝行ができたと思う」と語っている[16]。 母親が亡くなった際に一番気丈に振る舞い、涙も流さなかった上の弟が、葬儀の2週間後に倒れ、記憶喪失に陥ってしまった[51][47]。弟は「病院の先生が、おかんが死んだって意味わからんこと言っている」と、母親の死にまつわる2年ほどの記憶が完全に抜け落ちてしまっていたという[47]。 その後、自身と弟2人が生まれ育った大阪市に家を借り、弟を呼び寄せ、3人で共同生活を始めた[47]。これは、「狭い世界の中で凝り固まったら良くない。新しい世界を弟たちに見せてあげたい」と思ったからだといい、実際に様々な人に会わせたり、旅行に行ったり、自身が仕事であまり家にいることはできなかったが家に帰った時は弟と一緒にスーパーで食材の買い込みなどを行っていたという[47]。
母親の急逝
弟の記憶喪失