横山やすし
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横山ノックに弟子入りし、「横山やすし」へ

堺伸スケ・正スケは角座デビュー後、2年経った1961年[3]、相方の正スケの廃業に伴い解散。見兼ねた横山ノックから、「コンビ別れをしたんか、いっぺん遊びに来い」と誘われ、また、やすし本人もノックの師匠である横山エンタツの漫才が好きで、エンタツから続く漫才の名門屋号「横山」への憧れがあったことから、ノックの内弟子となった。師匠の持ち物がある場所を全て覚え、タバコを吸おうとするとライターを出し、出かける時は靴と靴べらを揃えるなど、弟子修業に励んだ。この態度をノックが認め、「日本一の漫才師になれ。今日から横山を名乗れ」と『横山やすし』の芸名を与えられ、同時に吉本興業に移籍する。

「やすし」の芸名の由来は、ノックが、「◯◯安し!」(「◯◯」は、商品名)という広告が頭の中にこびり付いていて、そこから連想して、「やすし」となった。ノックから新しい相方(後のバラクーダの岡本圭司)を世話されるが、内弟子修行を上がると生活苦に苛まれ、昼はアルバイトデパートの展示場の模型を作り、夜は無免許スクーターを使った白タクを行い、生活費を稼いだという。この頃は喫茶店で他人の会話を聞いてノート(ネタ帳)に書くなどネタ探しに懸命だったが、相方と温度差が生じ、数回(少年時代を除くと3回という)コンビ結成・解散を繰り返すことになった。周囲から「コンビ別れの名人」のレッテルを貼られ、自身にも迷いが生じ、廃業寸前まで追い詰められた。当時の相方は、年上だが弟弟子の横山プリンレツゴー正児(何れも芸名は『横山たかし』)など。
やすきよ結成時

西川きよしと1966年に「やすしきよし」のコンビ名でデビューする。きっかけは歌謡浪曲師の中山礼子がきよしを紹介したことだった。やすしは京都花月の向かいにあった「水車」という喫茶店で、きよしにコンビを組むことを度々迫ったという。きよしは当時はまだ研究生扱いだった吉本新喜劇を辞めて、コンビを組むことを当時の社長や部長に相談すると「やすし君とだけはやめとけ、二度と芝居には戻ってこれんぞ」と言われ、また新喜劇の脚本家の檀上茂が「きよしを渡せるか!」とやすしに怒鳴り込んで来て喧嘩になるなど、コンビ結成は周囲から祝福されなかった。しかし、きよしの覚悟を見抜いたやすしは「きよしは化けるで」と確信していたという。

結成当初はコンビ仲が悪かった。漫才作家の中田明成いわく、やすしには「台本を二回読むだけで漫才の“流れ”をつかんでいた[3]」と舌を巻くほどの飲み込みの良さがあったため「読み合わせでも十回以上しなければ気が済まない」きよしには「稽古嫌い」と映り[3]、コンビは稽古のことでしばしば揉めてしまい、背広がボロボロになるほどの掴みあいの喧嘩になることもあった。やすしは「解散や!!!」と怒鳴り散らしてその場を後にし、後日吉本興業に向かい解散の旨を伝えると、吉本のスタッフから「解散するのはかまへんが、台本も出来上がってるし、残った仕事してもらわんと困る」と諭され、スターだったヘレン杉本(西川ヘレン)との身分違いの結婚・寿引退をさせたきよしと、コンビ解散を繰り返すやすしという当時の二人の微妙な立場もあり、結局二人は思いとどまる。その時にきよしの発した「今後も小さなことからコツコツとやらさせてもらいます」というセリフは、いつしかきよしの代表ギャグとなった。

二人は周りの漫才コンビを評価・採点して徹底的に分類・分析した。やすしは著書「人生一直線」で当時のきよしを「動きや喋りがどうしても芝居風になってしまう」と見ており、また、きよしがマイクを気にしてコチコチの漫才になっていたと評している。それならばと二人は動きが面白い「どつき漫才」を目指すようになり、そして当時他の漫才師がやっていない「動き」というスタイルを見つける。またデフォルメし、舞台の中央にあるマイクから離れて動き回るという革新的な漫才を編み出した。やすしがどつかれて飛んだメガネを探す有名なネタも、この流れで出来たものである。また、それまでのやすしは自身がリードしすぎる漫才スタイルであったが、漫才に不得手だったきよしをやすしが信じて自由にやらせるスタイルとなり、結果的にこれがボケ・ツッコミが激しく交互に入れ替わる独特な「型破り漫才[3]」の基礎となった。稽古嫌いだったやすしが、きよしの懇願で本格的にネタ合わせをするようになったのもこの頃からであった。

「やすきよ」はこの流れから全国制覇を目指し、結成から1年足らずで第2回上方漫才大賞の新人賞を獲得。これを契機にテレビ出演も果たした。同じく動きで笑いをとるネタを主体とするコント55号とテレビ中継で同じ舞台を踏んだ時、やすしは「こいつらを倒さんかったら日本一には立てん」と思ったという。その後、また名古屋大須演芸場で同じテレビ中継の舞台を踏んだが、コント55号が舞台を左右に動き回るのでテレビカメラが追いつけず、これを見たやすしが「チャンスや」ときよしに思いついた秘策を告げた。それは逆に動かないことであり、その違いを明確にすることで視聴者を味方につけたという。この流れをもって1970年(昭和45年)には、第5回上方漫才大賞の大賞を結成から僅か5年にして受賞した。

そんな絶頂の最中、1969年(昭和44年)11月に養父・庄吉が南海高野線中百舌鳥駅踏切で通過した電車の風圧で転倒。頭部を強打し、7日後に意識が戻ること無く他界した。10日後に長男の一八が誕生。やすしは父に息子を見せたいと願っていたが、その願いが叶う事はなかった。

翌年12月に最初の事件となる、タクシー運転手に対する傷害と無免許運転事件の影響で長期謹慎を受ける。傷害事件で実況見分に駆けつけた警察官に運転免許証の提示を求められ「俺、国際免許やねん」と『グアムで国際免許を取ろう!』と書かれたチラシを見せただけで、肝心の免許証に関しては答えに窮した結果、無免許が発覚した[4]。やすしが謹慎の間に相方のきよしはピン芸人としての腕を急成長させ、さらに司会者としての才能を見出し、きよし単独での番組も増えるようになった。次第にやすしきよしのパワーバランスも微妙に変化し、復帰後もきよしが司会・バーターでやすしという組み合わせになることも多くなった。

事件の四ヶ月後に劇場復帰、執行猶予が明けた1973年(昭和48年)の春にテレビ復帰を果たすが、同年に最初の妻と離婚[5]


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