横光利一
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庭に大きな柿の木があり、試験になると「此処で勉強するとよく出来る」と言ってその木に登り、本ばかり読んでいた[12]。また自転車に乗って転倒して前歯が一本欠け、これは一生残った[12]。やがて両親が兵庫県神崎郡福崎に移ったため、1913年(大正2年)に一人で下宿生活を送る。柔道、水泳、陸上などスポーツ万能の少年であった[13]。スポーツ以外では講演部(現在の弁論部に相当するもの)で活躍した[14]。素行はかなり粗野であったようで、制服の規律を守らず、下級生に泥づけしたフットボールをぶつけるなどの行為を繰り返して、教頭からいつも睨まれ、「月に小遣い三十円も使うのは多すぎる」などの小言を言われていた[12][14]。この頃からすでに人の下風に立つことを潔しとせず、何事にも第一人者でなければ満足しない性格であった[14]。また当時流行したインチメート・フレンド(一種の同性愛関係)の対象として、1年生の別所光郎という少年を可愛がっていた[14]。同時にこの頃、近所に住んでいた当時小学5年生の宮田おかつに恋心を抱き[14]、のちに、この初恋の思い出をもとに『雪解』を発表している。このころ夏目漱石志賀直哉を読む[13]。またドストエフスキー作、片上伸翻訳「死人の家(死の家の記録)」から「文学の洗礼」を受けたとのちに語っている[6]。中学4年のとき、国語教師に文才を認められたのが契機で小説家を志望するようになった[15]1916年(大正5年)3月校友会会報に「夜の翅」「第五学年修学旅行記」を掲載し、奇抜で象徴的なものであった[15]。父は自分の後を継がせるために京都大学の工科へ進ませたいと考えていたが、横光は好きな先生がいると言って早稲田大学に進むと言って聞かなかった。また姉のしずこに対して「自分の思う学校にゆけないのなら、飛行機乗りになりたい」と語っていた[12]
大学時代

1916年(大正5年)、父の反対を押し切って早稲田大学高等予科文科に入学。東京府豊多摩郡戸塚村下戸塚の栄進館に住む[16]。文学に傾倒し、文芸雑誌に小説を投稿しはじめる。文学をやりはじめてからは「極道息子」「極道坊主」と心配されたが、不良少年ではなかった[17]。経費節約のため友人と三人で雑司ヶ谷に家を借りて住んだ[18]。夏休みのあと東京に帰ってみると、以前の下宿から連れてきた女中が部屋で友人と寝ており、横光は「まるで飲みほしたコップの麦酒の泡が一つ一つ消えてゆくのを見つめているような感じだった」といい、嫉妬は感じなかったのかという質問に「嫉妬は君、恋愛に付随する、必然の副産物だからね。僕はそれ以来、女性も友人も信じなくなった」と中山義秀に語っている[18]。この女中寝取られ事件については小説「悲しみの代価」[19]で書いた[20]。この事件は「生涯における、たった一つの過失」であったと中山は語っている[20]。12月14日に初恋の宮田おかつがスペイン風邪により14歳で急逝。

翌年1917年(大正6年)1月に大学を神経衰弱を理由に休学、父母の住む京都山科で遊ぶ[17]。度々姉の嫁ぎ先である大津に山を越えて遊びに行った。この時姉から、同窓生が「あんたんとこの利ちゃんの口は砂ほり(小魚の名)の口みたいや」と言っていたと聞き、それ以来、「口をぎゅっと引き締めて余り開けないで、はっきり分らないこもった声」で話すようになった[12]。7月に「神馬」が佳作として『文章世界』に掲載された。雑誌『文章世界』は当時文壇の登竜門とされていた[21]。10月には「犯罪」が当選作として『万朝報』に掲載された。筆名は横光白歩。11月には同じ筆名横光白歩で『文章世界』に関西方言を取り入れた「野人」を応募した[6]

1918年(大正7年)4月に英文科第一学年に編入[22]。同級に佐藤一英がおり[23]、下宿も同じで中山義秀も同じ下宿だった[24]。佐藤一英の詩歌研究会に加わり、そこに中山義秀、吉田一穂小島勗(つとむ)[22]らも集まった[23]。横光左馬の筆名で詩句を発表。先祖の横光右馬丞元維(宇佐の光岡城主・赤尾備前守種綱の家臣)をもじった筆名であった。横光は学校には行かず、下宿にこもって小説を書いて、投稿を繰り返していた[24]。たまに学校の講義に出席してもノートもとらず、瞑想するような態度で聞いているだけであった[21]村松梢風によれば横光はいつも和服に黒いマントをはおり、「教室へ入って来てもマントを脱がず、たつた一人中央の席へどつかり腰をおろすと、それから獅子がたてがみをふるように一と揺りぶるつと長髪を振り、左右を睥睨しながら、右手を上げて指で頭髪を掻き上げるのであつた。自分が一般のものと異つたものであることを人にも見せようとするし、彼自身も明かにそれを意識していた」[21]。また村松梢風は横光の下宿の生活について次のように語っている[21]。彼は博文館の文章世界の投書家であった。当時文章世界の選者は中村星湖だったが、横光の投書はいつでも賞められてはあるが所謂選外佳作の部で誌面には一度も載らなかった。それでも懲りずに毎月若しくは2か月に一編位長い間投書し続けた。学校は徹底的に怠けたが、翻訳でショーペンハウエルやキイランド、モーパッサン、シュニッツラー等を読んでいた。其の下宿には同じ英文科の同級生中山義秀と佐藤一英がいた。中山は横光より年も二つ下だが、東北出の素樸な青年で、まだ文学の素質は少しもなかったから、すでに一個の作家的スタイルを具へている横光に対してひどく感服して、毎日横光の部屋へ行って彼の談論を傾聴した。もつとも傾倒したのは中山ばかりではなく、彼には先天的に人を惹きつける何者かがあって、常に五六人の学生仲間が押し掛けていた。彼はそれらの仲間を前においていつも文学より他は談じなかった。 ? 村松梢風『近代作家伝』

中山義秀は『台上の月』で横光が毎日徹夜を続け、自室に閉じこもりほとんど外出せずに過度に喫煙し不健康な生活をしていたとのべ、「欲望の巣である肉体を、先ず殺してかからねば、といった彼一流の精神主義にもとづくのであろうが、同時にまだあまりに健康体だと、彼独自の作品が生まれてこない様子であった。事実そう云って、彼の制作の秘密を、私に洩らしたこともある」と語っている[25]
菊池寛との出会い菊池寛

1919年(大正8年)、『新潮』が「菊池寛氏に対する公開状」を募集し、佐藤一英が応募すると入選し、それが機縁となって佐藤は菊池寛を訪ねるようになった[23]。菊池は小説を書くようにすすめたが、佐藤はあくまで詩を作るとのべ、親友に小説志望がいるといい、1920年、横光を菊池寛に紹介し、以降、生涯師事することとなった[23][26]。友人小島勗の家へ出入りしているうちに、当時13歳であった妹のキミを意識し始める[14][27]

1920年(大正9年)1月、雑誌『サンエス』に小説「宝」を発表[6]。9月、戸塚から小石川区初音町の初音館に移った[28]。ここで横光が生田長江フローベール「サランボー」を手元において小説を書き、またデクエンシイやクヌート・ハムスンを読んでいたと吉田一穂、中山義秀が述べている[6]


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