1916年(大正5年)、父の反対を押し切って早稲田大学高等予科文科に入学。東京府豊多摩郡戸塚村下戸塚の栄進館に住む[16]。文学に傾倒し、文芸雑誌に小説を投稿しはじめる。文学をやりはじめてからは「極道息子」「極道坊主」と心配されたが、不良少年ではなかった[17]。経費節約のため友人と三人で雑司ヶ谷に家を借りて住んだ[18]。夏休みのあと東京に帰ってみると、以前の下宿から連れてきた女中が部屋で友人と寝ており、横光は「まるで飲みほしたコップの麦酒の泡が一つ一つ消えてゆくのを見つめているような感じだった」といい、嫉妬は感じなかったのかという質問に「嫉妬は君、恋愛に付随する、必然の副産物だからね。僕はそれ以来、女性も友人も信じなくなった」と中山義秀に語っている[18]。この女中寝取られ事件については小説「悲しみの代価」[19]で書いた[20]。この事件は「生涯における、たった一つの過失」であったと中山は語っている[20]。12月14日に初恋の宮田おかつがスペイン風邪により14歳で急逝。
翌年1917年(大正6年)1月に大学を神経衰弱を理由に休学、父母の住む京都山科で遊ぶ[17]。度々姉の嫁ぎ先である大津に山を越えて遊びに行った。この時姉から、同窓生が「あんたんとこの利ちゃんの口は砂ほり(小魚の名)の口みたいや」と言っていたと聞き、それ以来、「口をぎゅっと引き締めて余り開けないで、はっきり分らないこもった声」で話すようになった[12]。7月に「神馬」が佳作として『文章世界』に掲載された。雑誌『文章世界』は当時文壇の登竜門とされていた[21]。10月には「犯罪」が当選作として『万朝報』に掲載された。筆名は横光白歩。11月には同じ筆名横光白歩で『文章世界』に関西方言を取り入れた「野人」を応募した[6]。
1918年(大正7年)4月に英文科第一学年に編入[22]。同級に佐藤一英がおり[23]、下宿も同じで中山義秀も同じ下宿だった[24]。佐藤一英の詩歌研究会に加わり、そこに中山義秀、吉田一穂、小島勗(つとむ)[22]らも集まった[23]。