唐名を黄門という。秦の時代に置かれた黄門侍郎に由来しており、権中納言を極官とする水戸家の徳川光圀が水戸黄門と呼ばれた。鎌倉時代の公卿である葉室定嗣の日記『葉黄記』の名は彼の名字と極官から採られている。また「竜作の官」ともいう。これは『書経』舜典に、舜が竜という人物に「汝納言を作せ(なせ)」と言ったと記されていることによる[7]。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 道長の子息である頼通・教通・頼宗・能信も全員参議を経ずに権中納言に上っている。頼通の子息通房・師実と教通の子息信家・信長も同様であり、ここから慣例として定着したと考えられる。
出典^ a b 柳雄太郎「太政官における四等官構成」(初出:『日本歴史』324号(1974年)/所収:柳『律令制と正倉院の研究』(吉川弘文館、2015年) ISBN 978-4-642-04617-6)
^ 『玉葉』承安元年(1171年)4月22日条
^ 高田与清『官職今案』。大納言も同様に権官のみとなった。
^ 百瀬、2000年、P129-131.
^ 百瀬、2000年、P135-140.
^ 百瀬、2000年、P127-128.
^ 石村貞吉 嵐義人 校訂 『有職故実 上』 講談社学術文庫 ISBN 978-4061588004、54p
参考文献
野田嶺志「律令制と中納言」『日本史研究』172号、昭和51年(1976年)。
高島正人「中納言・参議の新置とその意義」『立正史学』50号、昭和56年(1981年)。
百瀬今朝雄『弘安書札礼の研究 中世公家社会における家格の桎梏』東京大学出版会、平成12年(2000年)。
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