樋浦勉
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劇団俳優座、劇団自由劇場、黒テント、六月劇場[7]、境事務所[1]を経て、2004年から劇団青年座所属[4]

昭和18年1943年)の戦争中に生まれる。当時はまだ混乱しており、父は台湾から引き揚げてくるまで田舎の新潟に疎開していたが、乳幼児であったため記憶は無いとのこと。3歳になる少し前である終戦の約1年後、台北から帰る際に最後の最後に船に乗るものの、はしけが怖くて降りられず泣き出していたところを見知らぬ男性が抱えて降ろしてくれたといい、その頃から記憶があると述べた[8]

終戦の記憶については「田舎でしたから、終戦らしい記憶はないですね」と語り、貧乏な家ではなかったものの、父が帰ってくるまでは祖母の家に居り、封建的な地域だったことから嫁は女中よりも下に見られている風潮が根強かったため、母は苦労したという[8]

札幌に越してから父が東京に転勤になり、吉祥寺に在住する。その後も引越しをしたが自身に物心がついて東京人になったと思ったのは、玉川中学校で寄宿舎に入ってからだとしている[8]

子供の頃は転々と引越しを経験したものの、中学校1年からひとりで寄宿舎に入っていたことの方が、引越しよりも精神的での自身の人格形成に影響が大きかったといい、「当時は早く大人になりたいと誰しもが思っていたんですよ。『ガキっぽいのは嫌だ』『早くヒゲが生えてほしい』という感じでしたから、背伸びしてたんじゃないですかね。中学でガラッと変わりました」と当時の価値観について振り返った[8]
俳優として

演劇は中学時代から経験し、俳優座養成所を経て、俳優座に入る前に劇団自由劇場を立ち上げている。

玉川中学校時代は演劇が盛んであったことから、中学生から演劇部に入り、移動演劇などを経験。トラックに乗り暗幕を張りながら『泣いた赤鬼』などを上演していたという。当時はまだ芸術学部ができる前だったといい、指導者はその後、芸術学部の部長、玉川大学の名誉教授になった岡田陽であった。演劇部を選んだ理由については「演劇というのは、お絵描きしたり、おママゴトしたりというように、本能的に人間の中にあるんですよね。憑依するというのかな、遊びみたいな感じで。入ってみて、好きで続けたわけですけれど、ただ、その後は悲惨でしたね。勉強なんかしやしない。そんな感じで大学1年生になりました。大学でも演劇ばかりやって、このままじゃロクな人間になれないと感じまして、本気で演劇をやってみようかと俳優座の養成所を受けました。そしたら、運良く受かりまして」と回想している。演劇部では井上孝雄田中信夫と一緒に芝居を経験した[8]

苦学生もいる中で自分はそうではなかったため、「大学を出る22歳くらいまでは、親が面倒をみて当然」と思いバイトはせず、貧乏生活は当たり前、と思い生活をしていたところ卒業したら仕事のオファーが届き、すると「もう仕送りは送りません」と母に言われ約2年後、演劇集団「黒テント」(津野海太郎らが所属する六月劇場、佐藤信らが所属する自由劇場、瓜生良介らが所属する発見の会が1968年に共同で創設した「演劇センター68」の流れをくむ、黒いテントで旅公演を行う演劇集団)を始めたらまた苦労の連続であった[8]

樋浦は俳優座養成所の14期であるが、仲間内に後に自由劇場を立ち上げる佐藤信(演出家)や串田和美(俳優・演出家)、吉田日出子(女優)などの面々がいたために前後にあたる13期、15期と並んで派手だったという。当時は1964年東京オリンピックが始まったばかりで六本木で高速道路や地下鉄を掘る仕事をしながら、養成所のやることとは別に仲間で教室で芝居を行い、その延長線で自分たちでも劇団を立ち上げて、やって行けるんじゃないかと考える。しかし見通しは立たず「もう3月だし、養成所も卒業なのにどうするんだ」と思い、仕方無くみんなそれぞれ好きなところを受けてみようということになり解散。泣く泣く色んなところを受けたところ俳優座に入れればと思っていたが、受からず、劇団雲に合格。同劇団は、先輩の高橋昌也に気に入られ、その縁で入ったといい、これから研究生を育てていくということで、新宿の箪笥町にいい劇場を持っていた中で福田恆存が上手く渡り歩き、政治家から金を引き出しながら財団法人の「現代演劇協会」を立ち上げる。アメリカ大使館の横にある立派な建物であったが、当時は、役者はどんどん別の劇団に移っていく時代であったために3?4年で辞めてしまったという[8]

そこでまた、養成所のようなものを自分たちでやれないかと準備を進めていたら「勝手なことするな」と言われ困っていたところに、俳優座養成所で一緒だった佐藤信に誘われて米倉斉加年福田善之らが所属する劇団である青芸に入団。佐藤は青芸の演出部であり、同じく俳優座養成所の同期の清水紘治も一緒であったが、青芸が解散することになり、今度こそ劇団を作ろうということで、佐藤、清水、と共に当時文学座だった串田和美吉田日出子などに交渉し、劇団自由劇場を立ち上げることに成功した[8]

養成所時代に映像デビューを果たしており、養成所の2年生の頃には1965年山本薩夫監督の大映作品『証人の椅子』に出演し、その後間もなく岡本喜八監督、三船敏郎主演の東宝映画『血と砂』にはトランペットを吹く少年楽団兵の一人として出演[8]


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