榛名_(戦艦)
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1916年、先にイギリス海軍によって導入されていた方位盤射撃照準装置(但し、試作機)を日本海軍で初めて搭載した。これは、全砲門で同一目標を攻撃する際、一括して指向・発射を行う一種のリモートコントロールシステムでもあった。

この前後は第一次世界大戦の最中であり、日本も連合国側として参戦していたことに従い榛名も中国方面・北支(中国北部)方面・ロシア方面などへの警備活動を行っている。

1920年9月12日シベリア出兵支援に備え、北海道後志支庁沖にて戦闘訓練中、1番砲塔右砲内で榴弾が破裂する「?(とう)中(内)爆発」事故が発生、15名の死傷者と船体全域に渡る損傷を負い、修理のため横須賀へと回航された。一方、第一次世界大戦中のユトランド沖海戦の結果、遠距離砲戦中に垂直落下する敵砲弾に対して巡洋戦艦における水平防御力の脆弱性が問題視され、これを改善する必要が生じたことから、折りしも修理のため入渠していた榛名にまずそれを施すこととなり、防御強化と主砲射程延長などが行われた。改装中の1921年ワシントン海軍軍縮条約が締結され、榛名を含む金剛型の代替艦と考えられていた天城型が建造中止を余儀なくされ、金剛型を近代化して第一線の戦力維持を図ることとし、ちょうど改装を一時終えて練習役務艦として現役を離れていた榛名は、1924年より引き続き近代化大改装を施されることとなる。その前年、1923年9月1日の関東大震災では横須賀に停泊しており、震災によって重油タンクが崩壊して油が横須賀港に流れ込み、火災が発生した。榛名は港外へ脱出し難を逃れたが、その時の写真が存在している。[18]

結果的に榛名は、第一次近代化改装を最初に施された艦となった。これは従来の石炭・重油混焼缶から重油専焼缶への換装や、上部構造物と船体の大幅近代化が含まれる改装であり、それまで低い司令塔と高い櫓の組合せであった艦橋が、後に日本戦艦の特徴と言われる重厚な“城郭型檣楼”(パゴダ・マスト)に改められたのも、榛名が最初であった。なお、この改装によって重量が増したため速力が25ノットに低下、このため後の1931年6月1日付で姉妹艦3隻とともに巡洋戦艦から戦艦に艦種変更された。また、金剛型全艦とも混焼缶を専焼缶へ全て換装予定であったが、予算の都合で榛名のみこの時点で混焼缶を一部残していた。これら一連の改装の結果として、榛名は日本海軍では異例の8年もの長期に渡って現役を退いていた。

一連の改装が完了した1928年昭和天皇即位を記念して同年12月4日横須賀沖にて挙行された大礼特別観艦式において、榛名は天皇が座乗する御召艦を務めた。供奉艦は戦艦金剛(先導艦)、比叡、装甲巡洋艦磐手、賜饌艦は榛名、金剛、比叡、赤城[19]。ちなみにこの年の観艦式は明治以来最も参加艦船が多い186隻が参加し、外国からの参列艦も軍艦7隻、部外船舶15隻であったという[19]

1931年11月8日熊本県内で行われた陸軍特別大演習への天皇行幸の際にも御召艦を務めている[20]。同年11月19日、天皇は鹿児島から横須賀へ榛名に乗艦して帰京した[21]

満州事変により日中の緊張が高まり、1937年以降の日中戦争に発展していく過程にあっては、榛名もしばしば中国方面への警備活動を行っている。

その様な情勢の中、折にふれ対空・航空兵装などの細かな追加改装を行いつつ、1933年9月、海軍軍縮条約失効をにらんで二度目の大規模近代化改装が施されることとなり、今度もまた同型艦では榛名が最初となった。丸1年をかけたこの第二次近代化改装では、動力部の刷新と船体・上部構造物の近代化改装が行われ、出力を新造時の倍としたことで速力も30ノットを超える高速戦艦(公式類別は飽くまで「戦艦」だが、これ以降の金剛型戦艦は一般にこう称される)として生まれ変わった。近代化改装が最も早かった榛名では砲戦距離延長に伴って高くなった後部艦橋を後部煙突と隣接させているが、その排熱の影響が大きかったことから、後に改装された霧島などでは後部艦橋を後方に傾斜させて排熱を避ける工夫を施しており、この点が榛名と姉妹艦を見分ける際の大きな特徴の1つとなっている。なお、金剛、比叡では主砲塔側面が角張っているのに対し、榛名・霧島では主砲塔側面が丸みを帯びていることも、金剛型各艦を見分ける特徴とされている。榛名は2本の煙突間の空間が、他の同型艦よりもやや広いのも特徴である。

第二次近代化改装が完了した1934年に佐世保鎮守府に移籍した。

1937年8月21日、榛名は伊1伊2伊3伊4伊5伊6戦艦長門陸奥霧島、軽巡洋艦五十鈴と共に多度津港を出港し、長江河口沿岸で23日まで作戦行動を行う。

もはや対米戦争が避けられないと判断された1941年10月頃、出師準備として磁気誘導魚雷をかく乱する舷外電路と、バルジ(被弾による浸水を防ぐため舷側水線下に着けられた突出部)への水密鋼管充填などを実施した。
太平洋戦争
緒戦

太平洋戦争開戦時は高間完(たかま・たもつ)大佐を艦長として第一艦隊に属し、三川軍一中将率いる第三戦隊に僚艦三隻とともに配属、同型艦の金剛と第一小隊を組み南方作戦支援に回された。1941年(昭和16年)12月4日馬公を拠点に出撃し、陸軍馬来上陸作戦支援を皮切りに、比島上陸作戦・蘭印(オランダ領東インド=現インドネシア)攻略作戦などを支援した。この間、シンガポールを出撃したイギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズ・同巡洋戦艦レパルスを中心とするイギリス東洋艦隊を迎撃すべく邂逅を図るも果たせず、同艦隊が日本軍航空隊に壊滅させられるという一幕もあった(マレー沖海戦)。

1942年(昭和17年)2月には真珠湾攻撃などを終えて回航された南雲機動部隊と合流、同型艦4隻が揃ってインド洋作戦に従事する。3月6日10時30分、南雲忠一司令長官は残敵掃蕩を命じ、第二航空戦隊(司令官山口多聞少将:空母蒼龍飛龍)、第三戦隊第2小隊(3番艦榛名、4番艦金剛)、第17駆逐隊(谷風浦風浜風磯風)の8隻で別働隊を編制、機動部隊本隊から分離した[22]。空母2隻の護衛に17駆第2小隊(浜風、磯風)を残し、金剛、榛名、谷風、浦風の4隻は3月7日早朝にクリスマス島に艦砲射撃を行う。圧倒されたイギリス軍守備隊は白旗を掲げた[23]。だが海軍陸戦隊を持たない4隻は同島を占領することが出来ず、白旗を放置してクリスマス島を去った。なおクリスマス島は3月31日に第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将/旗艦那珂)によって占領された(日本軍のクリスマス島占領)。詳細は「ミッドウェー海戦」を参照

同年6月5日ミッドウェイ海戦で榛名は姉妹艦の霧島とともに南雲機動部隊の護衛に当たった。早朝、榛名は艦載する九五式水上偵察機を索敵のため発進させた[24]。第一次ミッドウェー島攻撃隊発進後、南雲機動部隊はミッドウェー島から発進したアメリカ軍機の継続的な空襲を受けた。榛名もミッドウェー基地所属SB2Uビンディケーター11機(戦闘詳報では14機[25])の爆撃により至近弾を受ける[26]。SB2Uは直掩零戦の迎撃で1機を失い、2機が燃料切れで不時着、榛名に対し直撃弾2発を主張した。その後、アメリカ軍機動部隊艦載機SBDドーントレスの急降下爆撃により空母3隻(赤城加賀蒼龍)が被弾炎上すると、榛名、霧島、利根、筑摩は残存する第二航空戦隊飛龍(司令官山口多聞少将)を護衛した。だが、飛龍もアメリカ軍機の空襲で被弾炎上した。飛龍炎上後、榛名以下周囲の護衛艦艇もドーントレスの急降下爆撃を受けた[27]。至近弾を受けたが、深刻な損害ではなかった[28]。さらにB-17爆撃機の空襲を受け、左舷に至近弾となった[29]


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