榎本武揚
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^ 本名・村瀬誨輔。幕臣、儒者[9]。外交官・田辺太一の父。
^ 「甲」「乙」は名前が公表されるが、榎本の名前が無かったことから、「丙」とみられている[11]
^ 榎本は入学願を出したが却下され、昌平黌の学友・伊沢勤吾の父である大目付・伊沢政義に頼み込み、伝習所頭取となった勤吾の同行者として入学を許された[13]。なお赤松則良は、榎本は矢田堀景蔵の従者扱いで員外の者として講義を受けていた、と記している[14]
^ カッテンディーケ『長崎海軍伝習所の日々』「榎本釜次郎氏のごとき、その先祖は江戸において重い役割を演じていたような家柄の人が、二年来一介の火夫、鍛冶工および機関部員として働いているというがごときは、まさに当人の勝れたる品性と、絶大なる熱心を物語る証左である。これは何よりも、この純真にして、快活なる青年を一見すれば、すぐに判る。彼が企画的な人物であることは、彼が北緯59度の地点まで北の旅行をした時に実証した。」[16]
^ 同行のオランダ軍士官から洋服ではインド人と間違われる可能性があると指摘され、打裂(ぶっさき)羽織・裁付(たっつけ)袴に二刀差しの姿で観戦した[23]
^ 当時、榎本は神田和泉町に屋敷があったことから、和泉守としたといわれる[33]
^ 榎本は大坂城への登城途中に、負傷兵を保護していたプロイセン公使マックス・フォン・ブラントから、負傷兵の面倒を見ることを要請されている[39]
^ うち3万両は榎本に下賜され、オランダに残った留学生(伊東玄伯、林研海、赤松則良)の滞在費に充てられた[41]
^ 「軍艦・銃砲を引渡し、追ってふさわしく(相当)差し返すこと」と定められていた[46]
^ 新政府は榎本の脱走を忠義によるものと賞して、開陽ほかを榎本に預けたままとした[49]
^ 回答状の追伸にある『海律全書』の贈答に関する部分は以下の通り。「別本二冊、釜次郎和蘭留学中、苦学致候海律、皇国無二の書に候へば、兵火に付し、烏有と相成候段痛惜致候間、「ドクトル(注:高松凌雲のこと)」より海軍「アドミラル」へ御贈可被下候」[80]。なお、陸海軍参謀の山田顕義や海軍参謀の増田虎之助ではなく、交渉相手であった陸軍参謀・黒田清隆が本を受け取った。
^ 糾問所の建物は幕府の大手前歩兵屯所として使用されていたものであり、牢獄は大鳥圭介が歩兵頭のときに歩兵取締のため建てられた[87]
^ 黒田は箱館総攻撃直前の時点で既に、知人宛の手紙で「榎本は得難き非常の人物で驚かない者はなく、彼と生死を共にすべしと一同が奮発している」と記し、増田虎之助、曽我祐準とともに敵が降伏してきたら助命しようと約していた[91]
^ このとき榎本は薩長が支配する政府に仕えることに難色を示したが、大鳥圭介らが薩長ではなく朝廷に仕えるのだといって榎本に仕官を促した[100]
^ 開墾の際、樹木に火薬を付けて爆破する「爆破開墾」を行っている。なお、榎本農場は1918年(大正7年)、長男・榎本武憲により小作人に解放された[108]
^ 北辰社は土地管理のほか、東京・飯田橋から九段にかけての土地で牧場を経営していた[109]
^ 当時の外交慣例で武官公使の方が交渉上有利と判断されたためで、伊藤博文の建言によるものといわれる[112]
^ 総裁は三条実美[134]
^ このとき、榎本は山縣に「自分を罷免するのは、職務不十分なためか、それとも閣内人事の事情からか」と質したのに対し、山縣は後者だと言い放ち、榎本が憤慨している[144]
^ 移民課長(兼通商局長)は安藤太郎[177]。移民課は榎本の大臣退任後の1893年、通商局長・原敬の主張により廃止された[178]
^ 官報では10月27日薨去[195]
^ 榎本家に入婿したのは1822年(文政5年)との説もある[238]
^ 近代日本の万能人・榎本武揚, p. 331によれば明治41年(1908年)[233] となっているが、これは「昭和41年」の誤記と判断される。榎本隆充編「榎本武揚未公開書簡集」p225、榎本家家系図(2003)による。
^ 海軍大佐。フランスの法学者ジョセフ・ルイス・エルザー・オルトランの弟[257]

出典^ Enomoto Takeaki Japanese naval officer and statesman Encyclopadia Britannica
^ 日本大百科全書(ニッポニカ) 百科事典マイペディア「榎本武揚」
^ 合田一道 2014, p. 13.
^ 加茂儀一 1988, p. 35.
^ 井黒弥太郎 1968, p. 210.
^ 合田一道 2014, pp. 136?137.
^ 三浦直人「 ⇒伊藤博文をハクブンと呼ぶは「有職読み」にあらず : 人名史研究における術語の吟味」『漢字文化研究』第7巻、2017年、21-41頁。 、32-33p
^ a b 加茂儀一 1988, p. 22.
^ “田辺石庵”. コトバンク. 2015年8月13日閲覧。
^ 加茂儀一 1988, p. 34.
^ a b c d 近代日本の万能人・榎本武揚, pp. 141-143

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