榊原郁恵
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前述の「ナッキー?」はシリーズ2作品で2年間、同じくTBS系の木曜19時台バラエティドラマ枠5作品で2年半、連続して主演を務めている。

歌手としては7枚目のシングル夏のお嬢さん」が自身最大のヒットであるものの、オリコンチャートでは最高11位にとどまり、これが自身の最高位となった。『NHK紅白歌合戦』には1978年から6回連続出場し、紅組トップバッターを2回務めた。シングル盤のリリースは1986年(昭和61年)まで続けていた。現在は歌手としての活動はほとんどなく、単発的に舞台やイベント、テレビの懐メロ系の番組で歌う程度となっている。

1981年(昭和56年)に上演した『ピーター・パン』は自身初の座長公演であり、またホリプロが初めて手がけたミュージカルということもあって当初は興行的な成功を不安視する声もあったが、小柄でありながらスリムな体型を作り上げ少年役を演じ、この年度のゴールデン・アロー賞演劇賞および大賞を受賞した。「郁恵ピーターパン」は7年の間、毎年夏の1ヶ月を代役無しで飛び続け340回・76万人を動員した。公演は都内有数の収容数をほこる新宿コマ劇場が最後尾まで埋まるという客入りで千秋楽を延ばすほどの人気となり、追加公演のチケット発売には朝から長蛇の列となった。初演での入場者数は50回の公演で12万3564名、日本のミュージカル史上で初演時に採算をとれたのは初めてだった。本人曰く「なかでも美智子様紀宮様(当時)が観劇に来られたことが一番の思い出」と語っている[13]

1987年(昭和62年)、渡辺との結婚に伴い同年をもって『ピーター・パン』を降板。同年10月14日に結婚式・披露宴が行われ「完全独占生中継おめでとう!! 渡辺徹・榊原郁恵結婚披露宴」として日本テレビ系で生放送された。平均視聴率は40.1%(ビデオリサーチ・関東地区)と高視聴率を記録した。

結婚後は主婦タレントとしてバラエティ番組から絵本の読み聞かせ、情報・園芸番組まで幅広く活躍している。特にフジテレビものまね王座決定戦』の総合司会を1987年(昭和62年)から2000年(平成12年)までの13年間にわたって務めた他、同局で1990年(平成2年)前後 - 2007年(平成19年)9月28日の間、夕方→午前枠と何度も時間は移動したものの、ミニ番組料理番組の看板司会者として約16年もの間担当した。

2005年(平成17年)、番組企画で取り組んだ社交ダンスでは部門1級を取得した。近年はバッグや風呂敷など商品プロデュースも手掛けている。

厚木市で10アールを借りて、仲間4人とともに野菜を育てている[14]

2021年3月から2022年2月までテレビ朝日系のスーパー戦隊シリーズの特撮テレビドラマ『機界戦隊ゼンカイジャー』において、ヒロインの五色田ヤツデ役で出演した[15]

2022年11月28日、夫の渡辺徹が敗血症のため、61歳で死去した。「いい夫婦パートナー・オブ・ザ・イヤー2021」に選ばれ、家族で朗読劇に取り組むなど公私ともに「おしどり夫婦」と呼ばれた35年にわたる夫婦生活を、伴侶との死別という形で終わることとなった[16]
経歴[ソースを編集]

1976年昭和51年) - 第1回ホリプロタレントスカウトキャラバンでグランプリ受賞[2]。審査員特別賞は荒木由美子

1977年(昭和52年)1月1日 - 「私の先生」で歌手デビュー[2](キャッチフレーズは「一億円のシンデレラ」)。同期デビュー歌手では荒木由美子、高田みづえ、清水由貴子、大場久美子香坂みゆき狩人川崎麻世清水健太郎太川陽介などがいる。

1978年(昭和53年) - 「夏のお嬢さん」がヒット。

1980年(昭和55年) - 『ROBOT(ロボット)』がスマッシュヒット。

1981年(昭和56年) - 『ピーター・パン』初演。

1987年(昭和62年) - 俳優の渡辺徹と結婚。

1989年 - 第一子(裕太)出産。

1996年平成8年) - 第二子出産。

2007年(平成19年) - 環境省「我が家の環境大臣」に任命される。

2009年(平成21年) - 厚木市「あつぎエコ特別大使」に任命される。

受賞[ソースを編集]

第1回ホリプロタレントスカウトキャラバン グランプリ(1976年9月7日)

第6回東京音楽祭国内大会 シルバー・カナリー賞 優秀新人賞(1977年6月15日)

第10回新宿音楽祭 銀賞 (1977年10月12日)

第4回横浜音楽祭 新人賞 (1977年10月26日)

第8回日本歌謡大賞 新人賞 (1977年11月17日)

第4回FNS歌謡祭 優秀新人賞 (1977年12月20日)

第19回日本レコード大賞 新人賞 (1977年12月31日)

第4回日本テレビ音楽祭 金の鳩賞 (1978年8月24日)

第5回FNS歌謡祭 歌謡音楽賞 (1978年12月19日)

第4回あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭 ヤングアイドル賞(1978年12月26日)

第17回ゴールデン・アロー賞 グラフ賞 (1979年)

第6回あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭 金賞 (1980年12月26日)

第19回ゴールデン・アロー賞 大賞・演劇賞 (1981年)

エピソード[ソースを編集]
芸能活動[ソースを編集]

郁恵はブレイク後もしばらく寮に残り、電話も23歳ごろまで新人らと共同電話を使っていた。ホリプロの寮・管理体制の過度ともいえる厳格さについては、山瀬まみ伊藤美紀田中陽子など不満を漏らしたOGや、堀ちえみのように共同電話を独占するなど規則を破っていたOGもいるが、そんな体制にも郁恵は文句を言わなかった。

『ピーター・パン』初演の時、スタッフが舞台セット上の2階の窓を開けるタイミングを間違え、郁恵も宙乗りの場面と勘違いして窓から飛び出し、ステージに落下するハプニングが発生。自身に怪我はなく、「さあ、飛ぶよ!」と台詞を言いながら走って舞台袖に引っ込んだ。

相原勇は郁恵の演ずる『ピーター・パン』に強く憧れ、「“ピーター・パンを演じるために芸能界に入った”」と自ら語っている。

唐沢寿明は郁恵のファンで「ステージ衣装コンテストに応募した」「テレビ局で会った時シカトされた[注 1]」など、エピソードを度々トーク番組で披露している。

2005年(平成17年)には自身の当り役『ピーター・パン』の「宙乗り」に18年ぶりに挑戦。当時の衣装をそのまま着て飛んで見せ、衰えない若さをアピールした。

デビューシングル「私の先生」は、厚木中学校の時に憧れていたクラス担任の黒岩先生をモデルにした曲であり、夜のヒットスタジオ初出演時(1977年8月22日,歌った曲は「わがまま金曜日」)のゲストとして登場し対面した。

家族[ソースを編集]

夫の徹は郁恵がデビューした当時からファンだったため、『風の中のあいつ』で共演することが決定した時には大いに喜んだとのこと。

夫の徹によれば、予約の取れない人気店などでは郁恵であることをアピールし、芸能人パワーを最大限に利用して優遇してもらっている[17]

趣味・嗜好[ソースを編集]

自宅のこだわりは玄関内のバルコニーと自動で回転するクローゼット。一方徹が数千万円かけて作ったシアタールームでは郁恵がエクササイズをするため迷惑だと、徹が冗談交じりに語っている[17]

郷ひろみのファンで、芸能界入りする前はファンクラブにも入り、郷の自宅やコンサートにも行った経験がある。初めて自分の小遣いで買ったレコードも、郷の「よろしく哀愁」だった[8]。コンサート会場ではスコッチケーキを渡そうとしたが失敗している。スカウトキャラバンの演技審査は偶然にもゲストで来ていた郷が郁恵の相手役を務めた[18]

素人時代の柳沢慎吾が『ぎんざNOW!』の「素人コメディアン道場」出場時に、当時アイドル歌手として出演していた郁恵に会った時のことを「郁恵ちゃんに握手をしてもらい『頑張ってね』と声を掛けてもらった」と語っている。


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