榊原康政
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政治家の「榊原康正」とは別人です。

 凡例榊原 康政
榊原康政
時代戦国時代 - 江戸時代初期
生誕天文17年(1548年
死没慶長11年5月14日1606年6月19日
改名於亀(幼名。亀丸とも)、康政
別名小平太(通称
戒名養林院殿前大守職上誉見向大禅定門
墓所群馬県館林市の楠町善導寺
和歌山県高野町の高野山奥の院
新潟県上越市の榊神社
官位従五位下式部大輔正四位
幕府江戸幕府 老中(幕府開設以前は関東総奉行)
主君徳川家康秀忠
上野館林藩
氏族榊原氏
父母榊原長政:道家氏、養父:一徳斎
兄弟清政、康政、山内玄以某室、大竹六郎左衛門室、小笠原義信室
正室大須賀康高の娘
側室花房氏
大須賀忠政忠長康勝、聖興院、福正院
養子:松月院、職直
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榊原 康政(さかきばら やすまさ)は、室町時代後期から江戸時代初期にかけての武将大名上野国館林藩の初代藩主徳川氏の家臣。康政流榊原家初代当主。徳川四天王徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、現在も家康覇業の功臣として顕彰されている。
生涯
出生から家督相続榊原康政生誕之地碑(愛知県豊田市

榊原氏三河仁木氏の一族と自称し、後に伊勢国一志郡榊原に移って榊原を称した。後に伊勢に残った本家筋の系統と三河に戻った分家筋の系統があったと称するが、永正15年(1518年)頃の松平家の奉行人の1人には既に「榊原主計忠直」が存在していたことが確認できる。康政の系統は松平氏譜代家臣の酒井忠尚に仕える陪臣の家柄であり、有力な存在とは言えなかった[1]

天文17年(1548年)、榊原長政の次男として三河国上野郷(現在の愛知県豊田市上郷町)に生まれる。幼い頃から勉学を好み、書を読んで、字も大変上手かったという。13歳の時、松平元康(後の徳川家康)に見出され、小姓となる。三河一向一揆鎮圧戦で初陣を果たし、家康から武功を賞されて「康」の字を与えられた。康政は兄・榊原清政を差し置き榊原家の家督を相続している。この理由として、清政が謀反の疑いで切腹した家康の長男・松平信康の傅役であったことから、後悔の念で自ら隠居したためとも、清政が病弱であったため、度々康政が名代を務めることが多く、それ故に康政が家督を継いだともいわれるが定かではない。家康が関東に移封された後、康政は度々清政を見舞っている。62年に父の長政が死去し、長政の弟の榊原一徳斎が康政を養子として後見した。

永禄9年(1566年)、19歳で元服。同年齢の本多忠勝と共に旗本先手役に抜擢されて、与力50騎を付属される。以後も家康の側近にあって、旗本部隊の将として活躍。元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは朝倉軍の側面攻撃で多大な武功を立てている。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは家康撤退時に康政は浜松城に入らず、昼間のうちに浜松城に入れなかった味方兵を呼び集めて夜を待ち、一斉に兵に声を上げさせながら敵陣に駆け入らせ、動揺し逃げ惑う武田軍を瓦解させてから浜松城に入ったという。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは決死の覚悟で徳川本陣に突撃してくる内藤昌豊を本多忠勝と共に戦って家康を守ったという。天正9年(1581年)の高天神城の戦いでは先陣を務めた。翌天正10年(1582年)の本能寺の変発生後の家康の伊賀越えにも同行している。
本能寺の変後小牧・長久手の戦いでの榊原康政(楊洲周延画)

天正12年(1584年)、家康が信長の死後に頭角を現した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と対立し、小牧・長久手の戦いに至る。この合戦で秀吉の甥・秀次の軍勢をほぼ壊滅に追い込み、森長可池田恒興を討ち死にさせた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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