榊原康政
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それと共に兵を京、伏見、淀に送って、「今家康の兵十万が東国より来て陣を取っており、兵糧を買いつけたい」と言って、兵糧として赤飯、饅頭、餅、酒を一つ残らず買い取ると触れ回ったという[3]

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいては、主力の徳川秀忠軍に軍監として従軍し、中山道を辿り美濃国を目指すが、荒天で家康からの進発命令を携えた使者が遅れ、信濃上田城長野県上田市)の真田昌幸攻めを中止し、美濃に向かったもののやはり荒天で、秀忠とともに合戦に遅参する(上田合戦)。『藩翰譜』によれば、家康は秀忠の失態に激怒したが、康政のとりなしで事なきを得て、伏見城での対面が許され、秀忠は康政に大変感謝したと言われる。また、康政は秀忠に対して上田城攻撃を止めるように進言したとも言われている。

関ヶ原の戦いの後に老中となるが、所領の加増は無かった。よく言われる「家康が古参家臣に冷淡であった」とする根拠の1つとして、武功派家臣で、大きな失態のなかった康政を躊躇なく遠ざけた史実が挙げられることもあり、その際には康政らはこれに憤慨していたという形で語られる[4]。これとは別に、次の世代の大久保忠隣本多正純が既に老中となっていたため、康政が「老臣権を争うは亡国の兆しなり」と言い、自ら離れていったとする説もある[5]

一説には家康から水戸に加増転封を打診されたが、関ヶ原での戦功がないこと、館林が江戸城に参勤しやすいことを理由に断ったのだとも言われる。家康は康政の態度に感銘して、康政に借りがあることを神に誓い証文として与えた。慶長8年(1603年)には近江国に在京料として五千石が加増されている。

慶長11年(1606年)5月6日に毛嚢炎を煩い悪化、14日巳刻に館林にて死去。前記の関ヶ原の戦い後の対応で康政に恩ある秀忠は、病床にある康政を見舞うため医師や家臣を遣わせたが、その甲斐なく59歳で没した。

葬儀の際に側近の南直道が追腹を行った。後継の康勝の許可により、その墓は康政の隣に建てられている。

長男の忠政は母方の大須賀家を継ぎ、次男の忠長は夭折していたことから家督は三男の康勝が継いだ。大正4年(1915年11月9日、贈正四位。
人物・逸話
功績

『武備神木抄
』では、「康政は武勇では本多忠勝に劣るが、部隊の指揮官としての能力は忠勝に勝り、井伊直政に匹敵する」とされている。同書では「衆(部隊)をよく使い、軍慮見切り等は忠勝、両将(康政・直政)におよばず」と記されている。

姉川の戦いの時、第二陣に属し、この時、隊を真一文字に進ませ、登り難い岸を声を掛け合って押しあがれと指示。酒井忠次隊を追い抜かんばかりで、先鋒だった忠次隊も慌てて功を競ったという。この戦いで康政は家康に、「この手の戦い方は、この度の康政が手本なり」といわしめたとされる[3]

秀吉の死後、家康の命令で徳川軍を率いて近江国の瀬田まで進軍した。これは示威行動であるが、実際の兵力は3,000人ほどだった。ところが康政は瀬田に関所を設けて人留めを行なうことで、諸大名に大軍を率いているように見せつけさせたとされている[6]

三河大樹寺で学んだ能筆家としても知られ、行政能力に長けており、家康の書状もよく代筆したとされる。小牧・長久手の戦いの際に前年に信長の三男・織田信孝を殺害したという秀吉非難の文言も、達筆な文字であちこちに記された[7]

その他

井伊直政とは親友だったとされ、その交流の深さを知る上で、康政の次の様な言葉がある。「大御所(家康)の御心中を知るものは、直政と我計りなり」。常々「自分が直政に先立って死ぬようなことがあれば、必ず直政も病になるだろう。また直政が先立てば、自分の死も遠くない」と語り、直政が従軍するとあれば、康政は安心し、康政が従軍するとあれば直政は安堵したという[8]。直政が亡くなった後、まだ幼少だった井伊直孝に対して「何かあったら自分に申し付けるように」と家臣の木俣守勝らに書状で述べている(「京都井伊美術館所蔵文書」、「大阪城歴史博物館所蔵文書」)。

康政が家康に仕えた時、水野信元の家人に餞別としてもらった具足を着て戦に参加し、高名があったことから、以降康政は嘉例として出陣の時にはその具足を持ったという[3]
南蛮胴具足 (兜鉢のみ輸入品、東京国立博物館蔵、重要文化財)黒糸威二枚胴具足(東京国立博物館蔵、重要文化財)

隊旗には「無」の一字を配した。「無」の文字の意味は不明。所用の「紺糸威南蛮胴具足」や「黒糸威二枚胴具足」などは、現在は重要文化財東京国立博物館の所蔵。

家康の嫡男・松平信康は勇猛だが乱暴な一面もあった。このため康政は信康にたびたび諫言したため遂に信康は激怒して康政を弓で射殺しようとした。だが康政は少しも動じず泰然としていたため、逆に信康のほうがその態度に気圧されて諫言に従った[9]

家康と秀吉が和平した後、最初の使者として秀吉から康政が指名されたという。康政が上京して秀吉と対面した時、秀吉は「小牧にて立札を立てた私の首を一目見たかろうと思って呼んだが、和睦した今になってみればその方の志はあっぱれである。それを言うためにここに呼んだ。儂もお主を小平太と呼んでよいか。徳川殿は小平太殿のような武将を持っていて羨ましい。その功を賞して、従五位下・式部大輔の官位を贈ろう。」と言い、祝宴まで開いたという[3]

康政の一族は元は陪臣の出で家臣も少なかった(記録上、唯一確認できる康政以前からの榊原氏譜代の家臣は竹尾氏のみで、しかも江戸時代を通じて重臣に列する事は無かった)。他に康政の兄・清政の息子や娘婿も康政に仕えているが、彼らの能力だけで10万石を運営することは不可能であった。このため、家康から御付人と称される家臣が派遣され、後に彼らは家康の命によって徳川家の直臣から榊原氏の家臣へと転属になった。特に中根長重・原田種政・村上勝重は「三家老」と称され、康政を補佐して領国の運営を行った。康政および家康が没すると三家老は榊原家を去って徳川家の旗本に戻ることを望んだが、徳川秀忠の説得で息子に家督を譲って榊原家に留まらせることを条件に旗本として1,000石が与えられた。「三家老」の子孫は代々家老職を継承したが、秀忠から与えられた1,000石の継承も認められて明治維新に至っている[1]。のち、慶応の改革に際し旗本の軍役が金納に代わった際、この1,000石分の軍役の扱いについて、幕府勘定所と榊原家(当時は越後高田)の間で論争になっている[10]


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