欧州での楽長は、もともとは指揮者としてだけではなく、その楽団、古くは宮廷や市の作曲家や編曲者であり、さらに組織上の任務も担った。15世紀から19世紀にかけて、それぞれの音楽団体における創造的な統率者であった。宮廷楽長(ドイツ語: Hofkapellmeister)には、ハイドンやサリエリがいた。なお楽長はこの当時、公的に宮廷あるいは市から授与される名誉称号にもなった。
18世紀半ばからは、各劇場に楽長が置かれるようになった。稽古をつけ、公演を行う一方で、演目の絶え間ない更新のために尽力した。19世紀中ごろ、アドルフ・ミュラー1世
は、舞台作品のための広範な新曲を600以上も書き、フランツ・フォン・スッペは、高貴なオペラの稽古をつける仕事をする傍ら、サーカスの音楽を書き、後にオペレッタを作曲した。弦楽器を含む楽団の場合、コンサートマスターが同時に楽長を務めたり、代理を務めることも多かった。これは特に舞曲において一般的であり、ヨハン・シュトラウス1世、そしてヨハン・シュトラウス2世(若年期)は、彼らの楽団を率いてヴァイオリンを夜通し演奏、昼間は新曲を書いていた。1900年ごろには、指揮者と作曲家がそれぞれの職種として別れていくようになった。グスタフ・マーラーは、伝統にのっとって指揮も作曲もした音楽家であったが、生前は、作曲家としての正当な評価をされたとは言い難い。
複数の指揮者を抱える歌劇場においては、カペルマイスター(Kapellmeister)は今日もなお職業名として使われる。一般的に音楽総監督に次ぐ指揮者として第一カペルマイスターが置かれるが、ゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者が伝統的にGewandhauskapellmeister(ゲヴァントハウスカペルマイスター)と呼ばれるなどの例もある。 善行章を1本着けた二等兵を表す下士官兵の俗語として使われた。3年以上勤務して一等兵に進級できないということは人物に問題があることを意味し、新兵からは恐れられた。これは軍楽隊の進級が遅いことに由来するものである[23]。
日本海軍における楽長
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 1873年(明治6年)に海軍武官官等表に掲載したことで正式な官名となり、官等15等のうち楽隊長は十一等として曹長と同等、楽隊次長は十二等として軍曹と同等、楽長は一三等として伍長・鼓長(こちょう[3])と同等、楽師(がくし[1])は十四等として鼓次長(こじちょう[4])と同等とし[5]、1874年(明治7年)に楽隊次長を廃止して鼓長・楽長の官等を十二等として軍曹と同等、鼓次長・楽師の官等を十三等として伍長と同等とし[6]、1876年(明治9年)に楽隊長以下を廃止して楽長を十等とし、楽次長を十一等とし、楽師を十二等とし、楽手を十三等とした[7]。海兵隊は1876年(明治9年)に解隊した[8]。
^ 五国対照兵語字書によると楽長は、フランス語: Chef de musique
^ 1886年(明治19年)から名称を軍楽師に改め[11]、1920年(大正9年)から名称を海軍軍楽兵曹長に改めた[12]。
^ 1885年(明治18年)に少尉相当の軍楽部士官である一等軍楽長と軍楽部准士官の二等軍楽長に改め[15]、1886年(明治19年)に名称を陸軍一等軍楽長と陸軍二等軍楽長に改め[16]、1899年(明治32年)に陸軍一等軍楽長は陸軍楽長に、陸軍二等軍楽長は陸軍楽長補に改めた[17]。
^ 1920年(大正9年)から名称を海軍軍楽特務少尉に改めた[12]。
^ 1909年(明治42年)に中尉相当の陸軍一等楽長と少尉相当の陸軍二等楽長に改め[20]、1921年(大正10年)に大尉相当の陸軍一等楽長、中尉相当の陸軍二等楽長、少尉相当の陸軍三等楽長に改め[21]、1937年(昭和12年)に陸軍一(二、三)等楽長の名称を陸軍軍楽大(中、少)尉に改めた[22]。
出典^ a b c d e f 国立国会図書館 2007, p. 40.
^ 「海軍砲歩兵隊官等并俸給表」国立公文書館、請求番号:太00457100、件名番号:030、太政類典・第二編・明治四年?明治十年・第二百三十四巻・兵制三十三・会計二(第1画像目から第2画像目まで)
^ 国立国会図書館 2007, p. 105.
^ 国立国会図書館 2007, p. 104.