楽天野球団
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10月13日、初代監督に田尾安志が就任することが発表される[7]10月22日に新球団のチーム名を東北楽天ゴールデンイーグルス(通称:楽天イーグルス)と発表した[8]。このときライブドアベースボール(呼称:仙台ライブドアフェニックス)も加盟申請を行っていたが、同年11月2日のプロ野球オーナー会議で楽天のみの参入が正式に承認された[9](プロ野球の新規参入球団は1954年高橋ユニオンズ以来50年ぶり)。「ゴールデンイーグルス」の名称は、東北地方世界遺産白神山地に棲息する猛禽類イヌワシに拠る。この時すでに「ゴールデンイーグルス」の商標をライブドアが取得していたことが発表後に判明し、すべての権利を買い取ることになった[10][注釈 2]。新規参入決定後の11月8日、オリックスと近鉄の選手を合併球団「オリックス・バファローズ」と新規球団「東北楽天ゴールデンイーグルス」に振り分ける「分配ドラフト」が行われ、40選手の楽天入団が決定[11]

11月17日、新規参入決定後初のドラフト会議に参加。明治大学一場靖弘自由枠で獲得したことに加えて、大学・社会人球界から「即戦力」になりうる6名の選手を指名した。さらに、他球団から無償トレードならびに自由契約となった選手を次々と獲得(山ア武司関川浩一飯田哲也等)。また、分配ドラフトでオリックスに指名されたが、入団を拒否していた岩隈久志も金銭トレードで獲得している。ドラフト会議で指名した選手のうち、東北に唯一縁のあった5巡目指名の塩川達也東北福祉大学)は、現役引退後の2018年に一軍のコーチとしてチームに復帰。いわゆる「松坂世代」に当たる6巡目指名の平石洋介トヨタ自動車)は、現役引退後もチームに在籍したまま、一軍・育成コーチや二軍監督を経て一軍の監督代行を経験し、2019年には楽天の生え抜きとしては初の監督に就任。

チームの新本拠地となる宮城球場老朽化が著しかったため、楽天側の出資によってプロ本拠地としての使用に耐え得るよう、2箇年計画で増改築されることが決まった。その一方で、球場を所有する宮城県は球場の命名権売却を決め、募集を開始した。その結果、人材派遣会社の「フルキャスト」に年間2億円の3年契約で命名権を売却することが決定し、2005年3月、「フルキャストスタジアム宮城(略称:フルスタ宮城)」に改称される。命名権は二軍のチーム名についても売却を予定していたが、こちらの方は契約先は存在していない。

また、チームの練習場・合宿所は宮城球場に程近い宮城野区内にあるJT硬式野球部(2004年休部)の施設(JT球場など)を活用することを検討していたが、交渉がまとまらず断念。仙台市内での育成施設整備は難航を極めた。一方、二軍本拠地については楽天・ライブドアの参入計画が浮上した段階で秋田県山形県が誘致に名乗りを上げていたが、楽天側は仙台市に近い山形県を本拠地とすることを決め、山形市近郊の東村山郡中山町にある山形県野球場(現:荘内銀行・日新製薬スタジアムやまがた)を使用することになった。その後、練習場・合宿所などは天童市にある山形県総合運動公園内に整備する計画が立案された(整備までの当座の措置として、山形市内の公共宿泊施設を仮の合宿所として使用した)ものの、選手の大半が仙台市近郊に在住し、また当時は選手の一・二軍間の入れ替えが頻繁であったため、必要性に疑問が生じ計画は白紙化。仙台市内に育成施設を整備する計画に転換した(ただし二軍本拠地は変更しない)。

新規参入決定直後の秋季キャンプは白地に楽天のロゴが入ったジャージを着て藤井寺球場で行われた[12]
田尾監督時代
2005年

2月1日沖縄県久米島での春季キャンプで本格的に始動。2月26日新大分球場にて球団として初のオープン戦となる読売ジャイアンツ戦が行われ、4対3で勝利した。オープン戦は16試合で7勝8敗1分だった[13]

3月26日にパ・リーグ公式戦が開幕し、楽天は球団として初の一軍公式戦となる千葉マリンスタジアム千葉ロッテマリーンズと対戦し、先発の岩隈が完投し3対1で勝利した。球団創立以来一軍公式戦で、1試合も戦っていなかった球団が球団創立以来一軍公式戦で戦った経験のある球団を対戦相手に初戦を勝利したのは、日本プロ野球史上初めてのことであった。

だが、翌3月27日の第2戦は、打線がロッテの先発・渡辺俊介の前に1安打に抑えられ、2リーグ制開始以降としては最大得点差の0対26で一軍公式戦初敗戦を喫した(当該試合記事を参照されたい)。その後4連敗し、4月1日、本拠地初戦となる西武ライオンズ戦では初回先頭打者の礒部公一岡本篤志からバックスクリーン直撃の球団史上初の一軍公式戦本塁打を放つなど、16対5でチームは開幕戦以来のシーズン2勝目となった。しかし4月15日北海道日本ハムファイターズ戦から29日の西武戦にかけて11連敗で、勝率が1割台に突入。[14] このため、4月30日GMマーティ・キーナートをチームアドバイザーに(代わりに編成部長の広野功がGM代行を兼任した)、またヘッドコーチの山下大輔と打撃コーチの駒田徳広を二軍にそれぞれ降格(替わって二軍監督の松井優典と同外野守備・走塁コーチ橋上秀樹が昇格)させるなど、コーチングスタッフを大幅に入れ替えた。

5月6日より、この年から始まったセ・パ交流戦の成績は11勝25敗で最下位に終わった。7月には10勝9敗1分けで球団史上初の月間勝ち越しを記録したものの、8月にはシーズン2度目の11連敗[注釈 3][15] を喫するなどして、8月29日の対日本ハム戦(フルスタ宮城)でシーズン最下位とパ・リーグ全球団への負け越しが決まった。8月中にシーズン最下位が決まったのは1952年における8月20日に決まった近鉄パールス以来53年ぶりであった。9月25日のホーム最終戦(ロッテ戦)終了後、田尾監督のシーズン終了をもっての解任が発表された。最終成績は38勝97敗1分・勝率.281で、1970年にヤクルトが記録して以来35年ぶりの最終勝率3割切りとなった。開幕前からささやかれていた「シーズン100敗」こそ辛くも免れたものの、5位の日本ハムとは25ゲーム差、レギュラーシーズン1位のソフトバンクとは51.5ゲーム差を付けられた。2リーグ制以降の新球団の初年度の成績としては最低の勝率となった[16]。チーム最多勝は岩隈の9勝で、その次は福盛和男の4勝など戦力的に他球団と格段の差があった[15]。分配ドラフトの仕様など、最低限の戦力の保証が一切無かった事が大きく響いてしまった。編成部長の広野によれば「他のチームは補強費に40億近く用意しているのに、(楽天では)オーナーからもらった補強費は20億しかない」状態だったとのことで、三木谷浩史オーナーには「20億のチームが40億のチームに簡単に勝てたらおかしい」と説明していたが、それでもチームが試合に負けるたびに三木谷から米田純球団代表へ叱責の電話が止まなかったという[17]

田尾監督の後任には南海やヤクルト、阪神などの監督を歴任した野村克也が就任した。このとき広岡達朗のGM就任や、同時期に巨人を退団した清原和博の獲得なども検討されていたが、結果的にどちらも実現しなかった[17]


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