楼蘭
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ここ(且末)から北東に行くこと数千里、納縛波の故国に達する。即ち樓蘭の地である。
王城の名称

この楼蘭(クロライナ)とは別には、王都を指す言葉として?泥という言葉があった。『漢書』などでは?善国の首都としてこの名を用いている[3]。これはカローシュティー文字文書に登場するクヴァニ(クハニ Kuvani, Kuhani)の音訳であると考えられ、城砦を意味する語が王都の意味に転用されて用いられたものである[3]。また、カローシュティ文字文書の中にはマハームタ・ナガラ(Mahamta Nagara)という言葉で王都を呼んでいるものもある。これは「大きな都市」を意味する語であり、やはり後に王城を意味する語として転用された[3]
歴史楼蘭発掘のミイラ

楼蘭と呼ばれる都市、またその名を持つ国家がいつ、どのようにして成立したのかは定かではない。古くは新石器時代から居住が始まったことが考古学的に確認されており、いわゆる「楼蘭の美女」として知られるミイラは、纏っていた衣服の炭素年代測定によって紀元前19世紀頃の人物であると推定されている[11]紀元前2世紀頃の中央アジアの地図

文献史料に楼蘭の名が現れるのは『史記』匈奴列伝に収録された手紙の中で触れられているのが最初(紀元前2世紀)であり、その間の歴史は空白である[12][13]。その手紙は匈奴の君主である冒頓単于前漢文帝に宛てて送ったもので、この中で冒頓単于は月氏に対して勝利し、楼蘭,烏孫,呼掲及び近隣の26国を平定したと宣言している[14][13]。この手紙は文帝の4年(紀元前176年)に送られたものであるため、楼蘭は少なくとも紀元前176年以前に形成され、月氏の勢力圏にあったこと、そして紀元前176年頃匈奴の支配下に入ったことが推定されうる[13]。『漢書』西域伝によれば、西域をことごとく支配下にいれた匈奴は焉耆、危須、尉犁の間に僮僕都尉を置き、楼蘭を含む西域諸国に賦税し、河西回廊に数万の軍勢を置いてその交易を支配した[13]

紀元前141年武帝が即位すると漢は対匈奴積極策に転じた[13]。この時期に匈奴を攻撃するために西方に移動していた月氏(大月氏)と同盟を結ぶことを目的として張騫が派遣され、彼の往路の見聞の中で楼蘭にも触れられている。張騫はその行き帰りで二度匈奴に捕えられており、当時西域に匈奴の支配が広く行き届いていたことがうかがわれる[15]

漢は前127年前121年衛青霍去病の指揮で大規模な対匈奴の軍事行動を起こした[15][16]。彼は紀元前119年には漠北の匈奴本拠地を攻撃して大きな戦果を上げた。この結果、漢は本格的に西域経営に乗り出した。紀元前115年の河西四郡設置は漢の西域進出の端緒ともいえる[15]。こうして西域の交通路を抑えた漢は西域諸国や更に西方へと遣使や隊商を数多く派遣するようになった[15]。しかし、大挙増大した漢の人々(中には新興の交易市場に活路を見出した貧民も多かったといわれている)と西域諸国との間ではトラブルが頻発し、西域諸国では反漢感情が増大した[15]。特に楼蘭と姑師は、漢の進出を嫌い匈奴と接近して漢使の往来を妨害するなどの挙に出た[15]

これを憂慮した漢の武帝は紀元前109年、従驃侯の趙破奴と、楼蘭に遣使として派遣された経験を持つ王恢に命じ、数万人を動員して楼蘭と姑師に軍事介入を行った[17]騎兵700騎とともに先行した趙破奴の攻撃を受けて楼蘭は占領され、国王が捕えられた。このため楼蘭は王子の1人を漢に人質として出し漢に服属した。ところが西域の要衝楼蘭の漢への服属は匈奴にとっては座視できない事件であった。間もなく匈奴も楼蘭を攻撃したので、楼蘭は匈奴へも人質として王子を送り貢納を収めた[17]

こうした漢と匈奴の西域を巡る争いは長く続き、楼蘭の政治はその動きに激しく左右された。やがて再び漢の軍事介入を招く事件が発生した。武帝は大宛汗血馬を入手することを望んで代価の財物を持たせて使者を大宛に送ったが、大宛は漢使の態度が無礼であるとしてこれを追い返し、その帰途に大宛の東方の郁成城でこれを襲撃して殺し財物を奪った。これは漢の大規模な報復を招き、漢は将軍李広利の指揮の下で2度にわたって大軍を派遣した(紀元前104年 - 紀元前101年[17]。この漢の大宛遠征の際に楼蘭王は再び漢に捕えられて武帝の詰問を受けることとなり、武帝は楼蘭が匈奴にも人質を送り服属している事を責めた。楼蘭王はそれに答えて「小国は大国の間にあり、両属せねば安んずることは出来ない」と答え、両属を認めないならば漢の領土に土地を与え移住させて欲しい旨を伝えたという[17][18]。武帝はこれを聞いて納得し、楼蘭王は帰国を許された[19]。以後、漢は楼蘭方面の軍勢を強化し続けたため、匈奴の影響力は次第に後退していく[19][18]
?善国?善国(楼蘭国)最大勢力範囲。1世紀頃に形成され、途中変動しつつもこれに近い領域は3世紀頃まで維持された。

『漢書』によれば、紀元前92年に上述の楼蘭王が死去したため、楼蘭は漢に人質として出していた王子の帰国を要請したが、彼は漢で法律に触れて宮刑に処せられていたために漢は帰国を許可しなかった[19]。このため別の人物が王となり、彼も漢の下に王子尉屠耆を人質として出し、匈奴にも王子安帰を人質として送った[19]。しかし、この新王も間もなく死去すると、匈奴に人質として出されていた王子安帰が帰国して王座を得た[20]。これに対し漢は入朝を要求して使者を送ったが、安帰の後妻らは漢が人質として出した王子を帰国させないことを理由として反対し、結局入朝しなかった[20]。そして相変わらず続く漢使とのトラブルもあり、楼蘭では次第に漢の使節を殺害するという事件も起きるようになった[20]

漢は紀元前77年に大将軍霍光の指示によって平楽監傅介子に親匈奴派の安帰を暗殺させ、人質として長安にいた王弟尉屠耆を新たな国王とした[20]。また国名を「?善」と改称させ、漢軍が楼蘭に駐屯することになった[8]。そして尉屠耆に対し宮女を妻として与え、印章を与えた[8]。ここでわざわざ「?」という新字を作って楼蘭の名を改称させ、印章と妻の授与は楼蘭王国が漢の傀儡となったことを如実に示すものである[8]。特に国内への漢軍駐屯については、尉屠耆が自分の立場の弱いのを心配して自ら漢に依頼したと伝えられる[8]。漢軍は尉屠耆の進言によって伊循城に駐屯することになり、ここは間もなく西域南道における漢の拠点の1つとなった[8]

楼蘭が漢の支配下に入って間もなく、匈奴の僮僕都尉であった日逐王が漢に降るという事件が発生した(紀元前60年[21]。この結果漢は西域南道に加えて西域北道の全域を支配するに至り、新たに西域都護を置いて鄭吉を都護とした[22]。以後漢の西域支配は王莽によって前漢が終焉するまで継続し、?善と名を改めた楼蘭も傀儡王国としてその支配下にあり続けたと考えられる[23]

漢の繁栄による東西貿易の発展は西域の経済を大いに潤した。26ないし36国といわれた西域諸国は前漢末には55国に増加している。これは既存の王国が細分化したのではなく、交易の活況に伴って新たなオアシス都市国家が形成されたものであると言われている[24]


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