かたせ以降も、若手女優のヌードや濡れ場シーンが必ず入る。
東映の看板男優の一人が「女の出るやつ、オレ出ない」と言って、岡田社長が「今までのヤクザ映画にしたんじゃ、どうにもならないやね」とハラを立てたといわれ[32]、東映の看板男優が組長役で出演するようになったのは6作目からだった[32]。その分異色の配役が組まれ、萩原健一や桑名正博、津川雅彦、佐藤慶、草刈正雄、中条きよし、村上弘明、宅麻伸らが新境地を作り出した[32]。また初期は東映Vシネマとの端境期にあたり、哀川翔ら、Xシネで地位を得る若手の格好の踏み台となった[32]。一作目、二作目に連投する竹内力は今日では考えられないパシリ役での出演[32]だった。
シリーズ4作目『極道の妻たち 最後の戦い』(1990年)で岩下が復帰した際に、岩下が日下部に監督に山下耕作を希望した[33]。山下は依頼を固辞していたが、岩下に懇願され、監督を引き受けた[34]。1990年3月27日に銀座東武ホテルであった製作発表会見で山下は「テーマは岩下志麻です」と話した[34]。 家田の原作は亭主が浮気する、家に金を入れないなどの苦労話で、日下部の下に付いていた奈村協プロデューサーや監督の五社、脚本の高田宏治も「『鬼龍院花子の生涯』のようなパワーのある、燃焼できた物の後、いまさらヤクザの嫁さんの話でもないだろう」という意見で一致。このため東映上層部の意向は無視して原作にこだわることなく、もう一回アクションの原点に戻し、女に借りたヤクザの実録というコンセプトで脚本が書かれた[35]。脚本の高田は家田の原作に、当時の山一抗争や高田が脚本を手掛けた三国事件(『北陸代理戦争』)を素材に物語を構成した、そういった時代を入れたから迫力のあるスケールの大きな話が出来た、と述べている[35]。シリーズは時代と共に原作から乖離していった[15]。 岩下が毎朝、東映京都に車で到着するたび、スタッフがドアを開け、足元に草履をそろえた[6]。岩下の控え室にはタバコが用意され「まず一服どうぞ」とライターの火が付けられた。「撮影中は毎日、姐さん気分。極道の世界にハマッてしまったわ」と岩下は話した[6]。 ホテルの部屋でセリフの練習をしている時に友人から電話がかかってきた際、役に入り込み過ぎて、電話を取った第一声が「わてや」になってしまったという[36]。 京都撮影所の俳優センターに「刺青部屋」が当時あり、専属の刺青師が朝の5時から3時間かけて岩下の背中の刺青を描いた[37]。勿論実際の彫り物ではなく後で落とせるものであるが、絵の具を伸ばす際に使う刷毛がチクチクするのと、絵の具を乾かすときに塗るベンジンに刺激があり、少し痛みがあったという[37]。 衣装は五社監督と相談したものだが、着こなしは岩下自身が工夫したもの[37]。着物にピアスやネックレスをすると下品になるが、岩下はあえて小さなイヤリングとプチネックレスをつけた[37]。着物は襟首の下で合わせるのが普通だが、岩下は胸のところにほくろがあり、ほくろを目安に襟を開けた[37]。また着物を着たときは内股が常識だが、歩き方も外股にし、あごを上げて上から見下すような感じで、声のトーンをなるべく下げてものを喋ってみた[37]。一作目はそんなに低くないが『新極道の妻たち 覚悟しいや』(1993年)あたりがかなり低い。 第一作で岩下が着物を60着くらい衣装合わせをして20着くらい選んだ[31]。抗争の場面で血が付く場合があるため、着物は全て2着づつ用意したため衣装代だけでかなりの高額になった[31]。 岩下はもともと非喫煙者だったが、役作りのために周りの同世代が禁煙を始める頃からたばこを吸い始めた[37][28]。以来チェーンスモーカーになったが、極妻が終わって5年くらいでたばこをやめた[37]。 岩下は『グロリア』(1980年、ジョン・カサヴェテス監督)が大好きで[38]、"極妻"をやってるときにはいつもジーナ・ローランズのイメージがあったという[38]。
脚本
岩下の役作り
セリフ
刺青
ファッション
くわえたばこ
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