極東委員会
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12月に米英ソのモスクワ三国外相会議が行われ、予定されるFECは11カ国(アメリカ中国イギリスソ連オーストラリアカナダフランスオランダニュージーランドインドフィリピン)の代表で構成されることが決定した。この外相会議の翌日には、華族制度の解体(天皇制度支配の諸条件の基礎喪失)が宣言された。

なお、FEAC委員は1946年1月30日に訪日しマッカーサーと会談しており、次いでマッカーサーは新憲法に関する松本烝治国務相私案を拒絶し、いわゆるマッカーサー草案(日本国憲法草案)を作成した。

FECに改組を経た第1回会合は、1946年2月26日にアメリカのワシントンD.C.で開かれた。米・英・ソ・中の4か国には拒否権が与えられた。また極東委員会の決定は、アメリカ政府を通じる指令として連合国最高司令官に送られることになっていた。なおかつ緊急時には、極東委員会の決定を待たず、アメリカ政府は「中間指令権」を発動する権限を与えられていたので、アメリカが優越的地位にあった[7]

FECは、1947年5月3日に施行の日本国憲法について、10月24日に再検討を要請しており、マッカーサー元帥にメッセージを送り憲法再検討問題に関する情報と意見の表明を要請したが、マッカーサーは「日本国民には修正の意向がない」としてこれを拒絶した[8]。そのことから、1949年5月5日の議決により、日本国憲法の運用上の欠陥3点をマッカーサー元帥に通達している。
対日理事会

対日理事会は、極東委員会の出先機関として設置された[9]1946年昭和21年)4月22日から、1952年(昭和27年)4月まで、隔週で164回の会議が公開で行われた。

メンバーは、アメリカ合衆国イギリス連邦ソビエト連邦中華民国の四ヶ国の代表、議長は連合国軍最高司令官の代理であるアメリカ代表(ジョージ・アチソン、後任のウィリアム・シーボルドが議長を務めた)だった。

FECは、1952年4月、サンフランシスコ平和条約(対日講和条約)の発効により[7]廃止となった。
任務

極東委員会の任務は「極東委員会及聨合国対日理事会付託条項」の「甲 極東委員会」項において、

日本国が遂行すべき義務の基準作成および審議

軍事行動の遂行や領土調整に関して勧告することなかるべし[10]

連合国軍最高司令官の占領軍に対する指揮と日本における管理機構の尊重

とされている[10]

極東国際軍事裁判(東京裁判)では、委員各国から判事を一人ずつ出す権利を持ち、日本国憲法の制定に当たっては、新憲法草案の最終採決には、委員会の承認を必要とするとした決議を採択した。また、労働運動16原則を発表し、労働運動の必要性を保障しつつも、占領政策に影響する運動は禁止し、二・一ゼネスト中止に繋がった。
脚注[脚注の使い方]^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r “極東委員会 きょくとういいんかい Far Eastern Commission”. ブリタニカ国際大百科事典小項目事典. 2017年10月12日閲覧。
^ a b c d “資料と解説 3-4 極東委員会の設置とGHQとの会談”. 日本国憲法の誕生. 国立国会図書館. 2017年10月12日閲覧。
^ a b “きょくとう‐いいんかい〔‐ヰヰンクワイ〕【極東委員会】”. デジタル大辞泉. 小学館. 2017年10月12日閲覧。
^ “資料と解説 3-28 極東委員会の関与”. 日本国憲法の誕生. 国立国会図書館. 2017年10月12日閲覧。


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