極東国際軍事裁判
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裁判については、@勝った(連合国)側が負けた(敗戦国)側を裁いた(勝者の裁き[145]、A日本(負けた)側に有利な決定的証拠は却下され、連合国(勝った)側に有利な伝言証言はほとんど無条件に採用された[146]、B罪刑法定主義に反して[3]事後法の遡及的適用が行われた[4][5]、C連合国(勝った)側の戦争犯罪は問われなかった[4]、D裁判官検察官が連合国側の者だけで、中立国敗戦国の者は一人もいなかった[147]、E敗戦国(負けた)側の弁護人は裁判官の判断でいつでも解任できた[5]、F当時の国際慣習法では責任を問われなかった[2]部下の行為に対する上官の責任(不作為責任)が問われた[5]ことへの批判がある。

このような背景から「連合国による復讐」ではないかと指摘されている[148]。このような批判がある一方で、裁判について好意的な意見も存在する。被告席「ニュルンベルク裁判#裁判に対する評価の論点」も参照
アメリカ政府・GHQ要人の発言

GHQのチャールズ・ウィロビーはレーリンク判事に「この裁判は歴史上最悪の偽善でした」「日本が置かれたような状況では、日本がしたようにアメリカも戦争をしていただろう」と述べたという[149]

国務省ジョージ・ケナンも東京裁判について「法手続きの基盤になるような法律はどこにもない。戦時中に捕虜非戦闘員に対する虐待を禁止する人道的な法はある」「しかし、公僕として個人が国家のためにする仕事について国際的な犯罪はない。国家自身はその政策に責任がある。戦争の勝ち負けが国家の裁判である。日本の場合、敗戦の結果として加えられた災害を通じてその裁判はなされた」として、戦勝国が敗戦国を制裁する権利がないというわけではないが、「そういう制裁は戦争行為の一部としてなされるべきであり、正義と関係がない。またそういう制裁をいかさまな法手続きで装飾するべきではない」と批判した[150]

ケナンはさらに、国務省宛最高機密報告書の中で、この裁判は「国際司法の極致として賞賛されている」が、「そもそもの最初から深刻な考え違い」があり、敵の指導者の処罰は「不必要に手の込んだ司法手続きのまやかしやペテンにおおわれ、その本質がごまかされて」おり、東京裁判は政治裁判であって、ではないと批判した[151]。ただし、ケナンは日本人への同情から述べたのではなく、この裁判を支えている正義を理解する能力が日本人にはないとも述べ、戦犯は終戦時に即刻まとめて射殺した方が適切であったとものべている[152]
マッカーサーの発言

東京裁判の事実上の主催者ともいえたダグラス・マッカーサーは、朝鮮戦争勃発直後の1950年10月15日ウェーキ島でのハリー・S・トルーマン大統領との会談の席で、W・アヴェレル・ハリマン大統領特別顧問の「北朝鮮の戦犯をどうするか」との質問に対し、「戦犯には手をつけるな。手をつけてもうまくいかない」「東京裁判とニュルンベルグ裁判には警告的な効果はないだろう」と述べている。

またマッカーサーは、1951年(昭和26年)5月3日に開かれた上院軍事外交合同委員会[注釈 10]において、資源の乏しかった日本が「原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって戦争にむかった目的は、主として治安のためだったのです」と証言した[154][注釈 11]。この発言からマッカーサー自身が、大東亜戦争は日本の自存自衛のための戦争であったことを認めたものとする主張がある[156]

またマッカーサーは同委員会で「我々が過去百年間に太平洋で犯した最大の政治的過誤は、共産主義者達が中国に於いて強大な勢力に成長するのを黙認してしまった」ことにあるとも述べている[157]小堀桂一郎はこの発言を「東京裁判は誤りだった」という認識の、もう一つ別の表現だったと解釈している[158]
「勝者の裁き」

首席検察官ジョセフ・キーナンの冒頭陳述「文明の断乎たる闘争」という表現[89] に基づき、東京裁判に対する肯定論では「文明」の名のもとに「法と正義」によって裁判を行ったという意味で文明の裁きとも呼ばれる。


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