ドイツの降伏後にイギリス、フランス、アメリカ合衆国、ソビエト連邦の4か国が調印した国際軍事裁判所憲章に基づいてドイツでニュルンベルク裁判が実施された。それを参照して極東国際軍事裁判所条例(英語版)が定められた。11カ国(インド、オランダ、カナダ、イギリス、アメリカ、オーストラリア、中国、ソ連、フランス、ニュージーランド、フィリピン)が裁判所に裁判官と検察官を提供した。弁護側は日米弁護士で構成された。極東国際軍事裁判に起訴された被告は合計28名であった[1]。
この裁判では、その過程において南京事件の認定[6][7]がなされ、近代では「日本の戦争犯罪」として世界的に問題を指摘されており、日本の戦争犯罪の歴史は外交問題に発展することも珍しくない。
また、ほぼ同時期に重なって、BC級のみに該当するとして起訴された戦争犯罪を裁いた裁判が横浜で行われており、こちらは横浜裁判と呼ばれる。「国際軍事裁判所憲章」および「平和に対する罪」も参照 本裁判は、連合国によって東京市ヶ谷に設置された極東国際軍事法廷により、東条英機元内閣総理大臣を始めとする、日本の指導者28名を「平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益を毀損」した[8]「侵略戦争」を起こす「共同謀議」を「1928年(昭和3年)1月1日から1945年(昭和20年)9月2日」にかけて[8] 行ったとして、平和に対する罪(A級犯罪)、通常の戦争犯罪(B級犯罪)及び人道に対する罪(C級犯罪)の容疑で裁いたものである。 「共同謀議」の始期を1928年(昭和3年)1月1日からとしたのは検事側が田中上奏文(偽物)を見て信じたからと推測されるが、検事が秦徳純将軍を出廷させこの文書を証明しようとしたが、この証言は林逸郎弁護士の反対尋問により破られた[9]。 この東京裁判法廷は、日中戦争(日華事変)中の日本軍による中国大陸の南京占領のさいに、約2月間にわたって20万人以上の中国人が殺害されたと認定した(南京事件)[6][7]。この「20万人」という犠牲者数を中心に、事件当時の人口「20万人」や5万人の人口増加の点などから、事件の真偽や実態について、東京裁判の判断の是非をめぐる議論が続いている(南京事件論争)。不作為責任をめぐる議論もある(後述)。 A級「平和に対する罪」で有罪になった被告人は23名、B級「通常の戦争犯罪」で有罪になった被告人は7名、C級「人道に対する罪」で有罪となった被告人はいない。 裁判中に病死した2名と病気によって免訴された1名を除く25名が有罪判決を受け、うち7名が死刑となった。 なお、日本国との平和条約により「the judgments[10] 」を『受諾』し、『異議を述べる立場にない』というのが日本政府の立場である[11]。詳細は「日本国との平和条約第11条の解釈」を参照 1944年8月から終戦以降の政策方針と敵国の戦争犯罪人の取り扱いについて議論された。ヘンリー・モーゲンソー財務長官はナチス指導者の即決処刑を主張し、他方、ヘンリー・スティムソン陸軍長官は「文明的な裁判」による懲罰を主張した[12]。
経過
1946年(昭和21年)1月19日 - 極東国際軍事裁判所条例制定
同日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官:ダグラス・マッカーサー元帥による「極東国際軍事裁判所設立に関する特別宣言」
4月17日 - A級戦犯28名が確定
4月29日[注釈 1] - 起訴状の提出
5月3日 - 開廷(於:市ヶ谷の旧陸軍士官学校)
5月6日 - 罪状認否
5月13日 - 弁護側による管轄権忌避動議
5月14日 - 弁護側による補足動議
6月4日 - 検察側立証開始
1947年(昭和22年)1月24日 - 検察側立証終了
1月27日 - 弁護団による公訴棄却動議の提出
2月24日 - 弁護側反証開始
(5月3日 - 日本国憲法施行)
1948年(昭和23年)8月3日 - 判決文の翻訳開始
11月12日 - 判決言い渡し終了
12月23日[注釈 2] - A級戦犯中7名[注釈 3]に死刑執行
1952年(昭和27年)4月28日 - 日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)発効により、日本国政府は本裁判を受諾
概要
裁判
『南京事件』の認定
被告人
開廷までの経緯「ニュルンベルク裁判#前史」および「国際軍事裁判所憲章」も参照
アメリカの対日政策
敵国の戦争犯罪の取り扱いについての初期の議論
Size:371 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef