本裁判は、連合国によって東京市ヶ谷に設置された極東国際軍事法廷により、東条英機元内閣総理大臣を始めとする、日本の指導者28名を「平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益を毀損」した[8]「侵略戦争」を起こす「共同謀議」を「1928年(昭和3年)1月1日から1945年(昭和20年)9月2日」にかけて[8] 行ったとして、平和に対する罪(A級犯罪)、通常の戦争犯罪(B級犯罪)及び人道に対する罪(C級犯罪)の容疑で裁いたものである。
「共同謀議」の始期を1928年(昭和3年)1月1日からとしたのは検事側が田中上奏文(偽物)を見て信じたからと推測されるが、検事が秦徳純将軍を出廷させこの文書を証明しようとしたが、この証言は林逸郎弁護士の反対尋問により破られた[9]。 この東京裁判法廷は、日中戦争(日華事変)中の日本軍による中国大陸の南京占領のさいに、約2月間にわたって20万人以上の中国人が殺害されたと認定した(南京事件)[6][7]。この「20万人」という犠牲者数を中心に、事件当時の人口「20万人」や5万人の人口増加の点などから、事件の真偽や実態について、東京裁判の判断の是非をめぐる議論が続いている(南京事件論争)。不作為責任をめぐる議論もある(後述)。 A級「平和に対する罪」で有罪になった被告人は23名、B級「通常の戦争犯罪」で有罪になった被告人は7名、C級「人道に対する罪」で有罪となった被告人はいない。 裁判中に病死した2名と病気によって免訴された1名を除く25名が有罪判決を受け、うち7名が死刑となった。 なお、日本国との平和条約により「the judgments[10] 」を『受諾』し、『異議を述べる立場にない』というのが日本政府の立場である[11]。詳細は「日本国との平和条約第11条の解釈」を参照 1944年8月から終戦以降の政策方針と敵国の戦争犯罪人の取り扱いについて議論された。ヘンリー・モーゲンソー財務長官はナチス指導者の即決処刑を主張し、他方、ヘンリー・スティムソン陸軍長官は「文明的な裁判」による懲罰を主張した[12]。アメリカの新聞はモーゲンソーの即決処刑論を猛攻撃し、ルーズベルト大統領も裁判方式を支持することとなった[12]。スティムソンは裁判は「報復」の対極にあるとみなしていた[13]。 アメリカ対日政策を検討する機関として1944年12月に国務・陸軍・海軍三省調整委員会 (SWNCC) が設立された[14]。さらにその下位組織極東小委員会 8月13日の会議では日本に対しても平和に対する罪、人道に対する罪の責任者を含めることが合意され、8月24日のSWNCC57/1で占領軍が直接逮捕をし、容疑者が自殺で殉教者になることを防ぐ、連合国間の対等性を保障し各国が首席判事を出すこと、判決の権限はマッカーサーにあるとされた[16]。
『南京事件』の認定
被告人
開廷までの経緯「ニュルンベルク裁判#前史」および「国際軍事裁判所憲章」も参照
アメリカの対日政策
敵国の戦争犯罪の取り扱いについての初期の議論
国務・陸軍・海軍三省調整委員会極東小委員会
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