極東国際軍事裁判
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この東京裁判法廷は、日中戦争日華事変)中の日本軍による中国大陸南京占領のさいに、約2月間にわたって20万人以上の中国人が殺害されたと認定した(南京事件[6][7]。この「20万人」という犠牲者数を中心に、事件当時の人口「20万人」や5万人の人口増加の点などから、事件の真偽や実態について、東京裁判の判断の是非をめぐる議論が続いている(南京事件論争)。不作為責任をめぐる議論もある(後述)。
被告人

A級「平和に対する罪」で有罪になった被告人は23名、B級「通常の戦争犯罪」で有罪になった被告人は7名、C級「人道に対する罪」で有罪となった被告人はいない。

裁判中に病死した2名と病気によって免訴された1名を除く25名が有罪判決を受け、うち7名が死刑となった。

なお、日本国との平和条約により「the judgments[10] 」を『受諾』し、『異議を述べる立場にない』というのが日本政府の立場である[11]。詳細は「日本国との平和条約第11条の解釈」を参照
開廷までの経緯「ニュルンベルク裁判#前史」および「国際軍事裁判所憲章」も参照
アメリカの対日政策
敵国の戦争犯罪の取り扱いについての初期の議論

1944年8月から終戦以降の政策方針と敵国の戦争犯罪人の取り扱いについて議論された。ヘンリー・モーゲンソー財務長官はナチス指導者の即決処刑を主張し、他方、ヘンリー・スティムソン陸軍長官は「文明的な裁判」による懲罰を主張した[12]。アメリカの新聞はモーゲンソーの即決処刑論を猛攻撃し、ルーズベルト大統領も裁判方式を支持することとなった[12]。スティムソンは裁判は「報復」の対極にあるとみなしていた[13]
国務・陸軍・海軍三省調整委員会極東小委員会

アメリカ対日政策を検討する機関として1944年12月に国務・陸軍・海軍三省調整委員会 (SWNCC) が設立された[14]。さらにその下位組織極東小委員会 (Subcommittee for the Far East,SFE) が1945年(昭和20年)1月に設立され、日本と朝鮮の占領政策案が作成された[14][15]。裁判方式にするか、指導者の処刑方式かの検討もなされ、1945年8月9日報告書 (SFE106) では対独政策を踏襲し、「共同謀議」の起訴を満州事変までさかのぼること、日本にはドイツのような組織的迫害の行為はなかったので人道に対する罪を問責しても無駄であると報告された[15]

8月13日の会議では日本に対しても平和に対する罪、人道に対する罪の責任者を含めることが合意され、8月24日のSWNCC57/1で占領軍が直接逮捕をし、容疑者が自殺で殉教者になることを防ぐ、連合国間の対等性を保障し各国が首席判事を出すこと、判決の権限はマッカーサーにあるとされた[16]
連合国戦争犯罪委員会による対日勧告

1943年(昭和18年)10月20日に17カ国が共同で設立した連合国戦争犯罪委員会(UNWCC)は戦争犯罪の証拠調査を担当する機関であったが、終戦期には政策提言などを行うようになっており、オーストラリア代表ライト卿が対日政策勧告を提言し、1945年(昭和20年)8月8日には極東太平洋特別委員会を設置し、委員長には中華民国の駐英大使顧維鈞が就任し、8月29日に対日勧告が採択された[17]
SWNCC57/3指令

アメリカ統合参謀本部がJCS1512、またアメリカ合衆国内の日本占領問題を討議する国務・陸軍・海軍調整委員会が1945年(昭和20年)10月2日にSWNCC57/3指令をマッカーサーに対して発し、日本における軍事裁判所の設置準備が開始された[18]

しかし、ダグラス・マッカーサーはこうした「国際裁判」には否定的で、57/3指令を公表すれば、日本政府がダメージを受けて直接軍政をせざるをえない、東條英機を裁く権限を自分に与えるよう同年10月7日の陸軍宛電報で述べ、アメリカ単独法廷を主張し、ハーグ条約で対米戦争を裁くことによる「戦争の犯罪化」に反対した[19]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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