極東国際軍事裁判
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しかし、ダグラス・マッカーサーはこうした「国際裁判」には否定的で、57/3指令を公表すれば、日本政府がダメージを受けて直接軍政をせざるをえない、東條英機を裁く権限を自分に与えるよう同年10月7日の陸軍宛電報で述べ、アメリカ単独法廷を主張し、ハーグ条約で対米戦争を裁くことによる「戦争の犯罪化」に反対した[19]。GHQ参謀第二部部長チャールズ・ウィロビーによれば、マッカーサーが東京裁判に反対したのは南北戦争で南部に怨恨が根深く残ったことを知っていたからだと述べている[19]

スティムソン、マクロイ陸軍次官補らはマッカーサーの提言を採用せず、57/3指令の国際裁判方針を固守した[20]
イギリス

イギリス外務省はアメリカの対日基本政策に対して消極的で、日本人指導者の国際裁判にも賛同していなかった。もともとイギリスは、1944年(昭和19年)9月以来、ドイツ指導者の即決処刑を米ソに訴えていた。イギリスは、裁判方式は長期化するし、またドイツに宣伝の機会を与えるし、伝統的な軍事裁判は各国で行えばよいという考えだった[21]。結局英国は、1945年(昭和20年)5月に、ドイツ指導者の国際裁判に同意した。

ただし、この時点でもまだ日本指導者の国際裁判には同意していなかった。のち、イギリス連邦政府自治省およびイギリス連邦自治領のオーストラリアやニュージーランドによる裁判の積極的関与をうけたが、イギリスは同年12月12日、アメリカに技術的問題の決定権を委任した[22]
中華民国

中華民国国民政府では、カイロ会談直前の1943年(昭和18年)10月、孫文の長男孫科重慶の英字紙ナショナル・ヘラルドで天皇および天皇崇拝を一掃せよと論じた[23][24]。その後重慶に設置された連合国戦争犯罪委員会極東小委員会はアメリカ、イギリス、中華民国、オランダで構成され、日本人戦犯リストを選定した[24]

1945年(昭和20年)6月に作成された「侵戦以来敵国主要罪犯調査票」では、「日皇裕仁」をはじめとする「陸軍罪犯」173人、「海軍罪犯」13人、「政治罪犯」41人、「特殊罪犯」20人が選定された[24][25]。7月17日、国民参政会は、天皇を戦争犯罪人として指名し、天皇制度廃止を主張したが、国民党政府は米国の方針と合わせて、訴追しないとした[24][26]

同年9月の「日本主要戦争罪犯名単」では178人が選定され[27]、その後「日本侵華主要罪犯」として本庄繁土肥原賢二谷寿夫(第6師団長)、橋本欣五郎板垣征四郎畑俊六(支那派遣軍総司令官)、東條英機和知鷹二(太原特務機関長)、影佐禎昭(支那派遣軍総司令部)、酒井隆(第23軍司令官)、磯谷廉介(香港総督)、喜多誠一(第1方面軍司令官)の12人、さらに1946年1月に「第2批日本主要戦犯名単」として、南次郎荒木貞夫平沼騏一郎阿部信行米内光政小磯国昭嶋田繁太郎広田弘毅松岡洋右東郷茂徳梅津美治郎松井石根寺内寿一牟田口廉也河辺正三谷正之山田乙三有田八郎青木一男末次信正西尾寿造ら21人、合計33人の戦犯名簿をGHQに提出した[24]。またBC級戦犯は83人が選定され、極東小委員会は1947年3月までに日本軍人戦犯合計3147人を選定し、このうち国民党政府が指名したものは、2523人にのぼった[24]

12月23日には、中央憲兵司令部天津情報組駐東北情報員李箕山の「日本再起防止 共同管制政策」では天皇に退位を求め、万世一系の皇統思想をひっくり返すと主張した[24][28]

また翌1946年から1948年の文書「日本天皇世系問題」では天皇は日本の侵略的軍国主義の精神的基礎であるため排除を求めた[24][29]
国際検察局の設置

1945年(昭和20年)12月6日、アメリカ代表検事ジョセフ・キーナンが来日する[30]。翌7日、マッカーサーは事後法批判の回避、早期開廷、東条内閣閣僚の起訴をキーナンに命じた[30]。翌12月8日、GHQの一局として国際検察局 (IPS) が設置された[30]
国際軍事裁判所憲章と特別宣言「国際軍事裁判所憲章」を参照

1946年(昭和21年)1月19日、ニュルンベルク裁判の根拠となった国際軍事裁判所憲章を参照して極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められた[31](1946年4月26日一部改正)。

同日、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が極東国際軍事裁判所設立に関する特別宣言を発した[31]。この宣言は、ポツダム宣言および降伏文書、1945年12月26日のモスクン会議によってマッカーサーに対してアメリカ・イギリス・ソ連、そして中華民国から付与された、日本政府が降伏条件を実施するために連合国軍最高司令官が一切の命令を行うという権限に基づく[32]
フランス

アメリカ国務省は1945年末にフランス政府に対し判事と検察官を指名するよう要請したが、フランスが悠長であったため翌1946年1月22日に催促した[33]。フランスははじめインドシナ高等弁務官のダルジャンリューの意見もあり、パリ大学のジャン・エスカラを選んだ[33]。エスカラは1920年代に蒋介石中華民国の法律顧問をつとめたこともあったが、要請を断り、他の学者を紹介するにとどめた[33]。一方、第二機甲師団陸軍准将ポール・ジロー・ド・ラングラードらが政府に対して派遣する法律家は植民地での経験があるものがよいと提言し、マダガスカルや西アフリカの控訴院判事を歴任したアンリ・アンビュルジュが指名された[33]。しかしアンビュルジュも出発直前になって固辞し、アンリ・ベルナールが指名された[34]
日本の裁判対策

終戦後、日本では自主裁判も構想されたが、美山要蔵の日記にもあるように残虐行為の実行者のみが裁判の対象となってしまい、戦争裁判は戦勝国による「勝者の裁き」であるとの覚悟があったとされる[35]


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