極悪非道
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第二次世界大戦期のナチスジェノサイドを正当化したが[32]ルワンダ虐殺の際、フツインテラハムウェも同じことをした[33][34]。しかしこういった残虐行為の実行犯は自らの行為をジェノサイドと呼ぶことを避けた、というのはジェノサイドという語によって精確に示される行為の客観的な意味は特定の人間集団を不当に殺すことだからであるが、少なくとも不当に苦しめられた人々はこの行為を悪だと理解する。悪は文化から独立であり、行動やその意図と関連に連動していると普遍主義者たちは考えている。そのため、ナチズムやフツのインテラハムウェのイデオロギー的な主導者はジェノサイドの実行を許容(したり、それは道徳的に認められると考えたり)するが、ジェノサイドは「根本的に」あるいは「普遍的に」悪だという信念に基づけばジェノサイドを扇動する人々は本当は悪いということになる[不適切な合成?]。悪事を働くことは常に悪いが悪事を働く者は完全には悪なる存在でも善なる存在でもない、と主張する普遍主義者もいるようだ。例えば棒付き飴を盗んだ人が完全に悪くなるということはむしろ支持できない立場だということになる。しかし、普遍主義者は、人間は明らかに善である人生や明らかに悪である人生を選択することができ、大量虐殺を行うような独裁はもちろん後者であるとも主張している。

悪の本性に関する考えは以下の四つの相反する立場のうちの一つに落ち着きがちである:

絶対主義 (倫理)では、善悪とは神、神々、自然、道徳律、コモン・センス、その他の根拠によって打ち立てられる不変の概念であると考える[35]

虚無主義 (倫理)は、善悪というのは無意味な概念で、自然には倫理の構成要素になるものなど存在しないと主張する。

相対主義 (倫理)では、善悪の基準となるのは地域ごとの文化、慣習、固定観念の産物だけだと考える。

普遍主義 (倫理)とは絶対主義者の言う道徳律と相対主義的観点との和解点を見出そうとする試みである。普遍主義は、道徳律はある程度可変的であるにすぎず、何が本当に善あるいは悪であるかは全人類を通じて何が悪であるかを調査することで決定することができる、と主張する。サム・ハリスは、普遍的な道徳律は脳生物学が刺激を調べる方法に基づいて物理的にも精神的にも計量可能な幸不幸の単位を用いることで理解することができると述べている[36]

プラトンは、善をなす方法は相対的に少なく、悪を成す方法は限りないと書いている。また、そのために悪を成す方法が我々の生活に大きな影響を及ぼし、他の者の生活に苦しみを与えうるという。このため、道徳的規則を策定し、実施する上で重要なのは善を促進することよりもむしろ悪を防止することだとバーナード・ガートのような哲学者が主張している[要出典]。
悪は有用な概念か?

悪い「人間」など存在せず、「行動」だけが悪だと考え得ると主張する学派が存在する。心理学者・仲裁人のマーシャル・ローゼンバーグは、暴力の起源はまさに「悪」「悪さ」といった概念そのものだと主張している。私たちが誰かを悪い、あるいは悪だとレッテル貼りすると、責め苦を与えたいという欲望がレッテル貼りすることによってもたらされるとローゼンバーグは言う。これによって私たちが傷つけている人に対して何かを感じなくなることが容易にもなる。ドイツ人がほかの民族に対して通常はしないことをするうえでカギとなったナチスドイツにおける言語の使用について彼は言及している。彼は悪の概念と、悪いとみなされることに対して罰を与える、罰を与えることを通じた正義―因果応報―を作り出そうとする司法制度とを結びつける。彼は、このアプローチを、悪の概念が存在しない文化で彼が見出したものと比較する。そういった文化では、人が誰かを傷つけた時、彼らは彼ら自身や彼らの属するコミュニティと相いれなくなったと信じられ、病んでいるとみなされ、彼ら自身や他の人々と相いれるように新しい度量法が持ち出される。

心理学者のアルバート・エリス論理情動行動療法(:Rational Emotive Behavioral Therapy)と呼ばれる彼の学派において同様の主張を行っている。怒りの起源や他者を傷つけたいという欲求はほぼ常に他者に関する黙示的あるいは明示的な種々の哲学的信念に結びついていると彼は言う。さらに、こういった様々な秘密のあるいは公然の信念あるいは臆断を持たなければたいていの場合暴力に訴える傾向は減退すると彼は主張している。

一方、アメリカの重要な精神科医モーガン・スコット・ペックは悪を「好戦的な無知」とみなしている[37]。ユダヤ―キリスト教における「罪」の概念は本来人間が「遣り損な」って完成に達しないような過程としての罪である。このことに多くの人々は少なくともある程度は気づいているが、実際に悪であり好戦的な人々は自分が気づいていることを認めないとペックは主張している。特に無実の罪を受ける人(しばしば子供や弱い立場の人々)を選んで悪行を成すという結果に至る有害な独善性こそが悪の特徴だとペックは考えている。ペックが悪人と呼ぶような種類の人々は自分の良心から(自己欺瞞を通じて)逃げ隠れしており、この点でサイコパスにおいて明らかに良心が欠如しているのとは区別されるとペックは考えている。

ペックによれば、悪人は:[37][38]

罪から逃れ、自己イメージを完璧なものに保とうという意図をもって自己欺瞞を続けている

自己欺瞞の結果として他者も欺いている

自身の罪を非常に狭い範囲の対象に投影し、他者をスケープゴートにする一方で自分を皆とともに正常に見せかける(「彼に対する彼らの不感受性は選択的である」)[39]

一般に、他者をだますのと同じだけ自己欺瞞のために見せかけの愛によって嫌う

政治的(感情的)力を悪用する(「人間の意志が公然に、あるいは秘密裏に他者に賦課を負わせること」)[40]

高いレベルの社会的地位を保ち、そのために常に嘘をつく

自身の罪に関して一貫している。悪人は犯した罪の大きさよりもむしろ(破壊性が)持続することによって特徴づけられる

自分が起こした悪事の被害者の視点に立って考えることができない

批判その他のナルシシズムを傷つけるような行為を受けた時にひそかに耐え忍ぶことができない

ある種の制度も悪である可能性があると彼は考えている、というのはソンミ村虐殺事件とそれが隠蔽しようとされたことに関する彼の議論に示されているのである。この定義によれば、犯罪的テロリズムと国家テロリズムも悪だと考えられるであろう。
必要悪

マルティン・ルターは小さな悪が否定しがたい善となる場合があることを認めた。「あなたの飲み仲間の社会を探し、飲み、遊び、猥談をして楽しみなさい。悪魔が良心的な人に対して何かをする機会を与えないために、悪魔を憎みさげすむのとは別に時には罪を犯しなさい」と彼は書いている[41]

政治哲学のある学派では、指導者は善悪に関心を持たず、実用性のみに基づいて行動するべきだと考えられている。政治に対するこのアプローチはニッコロ・マキャヴェッリが唱えたものである。


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