楚_(春秋)
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戦国時代に入ると人口の比較的希薄な広大な国土に散らばる王族・宗族の数や冗官(俸給のみで仕事の無い官職)が多くなり過ぎ、国君の権力と国の統制が弱化した。他の六国では世襲でない職業官吏や、文侯、秦の恵公などの開明君主に代表される他国出身者の要職登用が成立していたが、戦国時代を通じて令尹宰相)就任者の大多数が王族であり、それに次ぐ司馬や莫敖の位も王族と王族から分かれた屈氏・昭氏・景氏が独占するなど、旧態依然とした体制を変えられず権力闘争に明け暮れた。

戦国初期は呉にを落とされた時代から引き続いて国威が振るわず、魏やによって領国北部の淮河流域を奪われ、潁川(潁河)流域の陽?やなどを奪われたことが見つかった竹簡に記録されている。

やがて呉起が魏から亡命してくると、悼王の信任を得て前記の弊害を除去する国政改革を断行し、君主権を強め非効率な体制を改めることに成功する。しかし、悼王が死ぬと呉起は殺され、非効率な体制と各地に独立した権力を持つ封建領主が散在する旧情に復した。改革によってある程度国威を回復した楚は、淮河中流域の失地回復は果たせなかったが、長江や淮河の下流域への拡張を推し進め越など諸国を併呑している。

20代目の懐王の時代、圧倒的な強国となってきた秦に対しどう当たるかで親秦派と親斉(田斉)派に家臣は二分した。親斉派の筆頭は屈原であり、懐王に対し秦は信用ならないことを強く説いたが、親秦派の後ろにいた秦の宰相・張儀の策略により屈原は失脚し、地方に左遷された。諌める者がいなくなった懐王は張儀の策略にいいように踊らされ、最後は秦に幽閉されて死去した。

その後も秦の攻勢は強くなる一方で、紀元前278年白起により首都の郢を陥され、に遷都した。

その後は春申君の主導の下に楚・魏・趙などの連合軍が秦へ出兵したが失敗し、寿春へ遷都した。春申君が死ぬとまともに国政を執れる者がいなくなり、秦の王翦将軍に項燕項羽の祖父)が敗れ、最後の王・負芻は捕虜となる。秦に仕えていた公子・昌平君が大将軍項燕に奉じられて楚王と名乗るが、秦軍に鎮圧され、紀元前223年に滅びた。

その後始皇帝が死去し秦の政治が腐敗すると、陳勝が反乱を起こして張楚と呼ばれる国を建てたが、陳勝が敗北したために楚の旧公族出身である景駒という人物が、留で秦嘉とィ君らによって擁立されて楚王を称した。項燕の子・項梁は甥の項羽(項羽)と英布に命じて秦嘉を討ち取り、景駒は梁に逃れ、まもなく没した。そこで、項梁は范増の助言を採り入れて懐王の孫熊心を擁立して祖父と同じ「懐王」を名乗らせ、西楚を建てた。項羽は勢力を拡げて諸侯の盟主となり、懐王を「義帝」としたが、面倒になった項羽は後に英布に命じてこれを弑して、項羽自らは「西楚覇王」と称した。

項羽が劉邦によって滅ぼされて前漢が成立、楚の地には韓信が封じられた。韓信は後に淮陰侯に降格され、その領地は西の楚と東の荊の二国に分割、それぞれ漢の宗室劉交劉賈が封じられた。楚はその後も諸侯王の一つとして存続し、呉楚七国の乱などにも加わっていたこともあった(以降はを参照のこと)。
文化

春秋戦国時代における楚が注目される理由の一つとして、独特な文化を形成していたことが挙げられる。春秋五覇・戦国七雄の中でもシャーマニズム的な要素を持ち合わせていた楚の墓中からは、「人物竜鳳帛画」や「人物御竜帛画」といったような帛画や「鎮墓獣」といった魔除けを目的とした副葬品など他国にはない出土物も多く確認されている。他国でも動物信仰は行なわれていたが、とりわけ楚では動物信仰が盛んに行なわれていたことも明らかになっている。また中原様式の建物や埋蔵品も発見されていることから、中原の影響も受けており、中国化も進んでいたことがうかがわれる。
郭店一号「楚墓」

1993年に郢地で発掘された「荊門市郭店一号楚墓」から、楚独特の漢字である楚文字で書かれた竹簡が大量に発見された。度々盗掘に遭ったせいか、保存状態の良い青銅製祭器が少数しかないため分析が難しく年代の最終的な確定はしていないが、戦国晩期の楚の墓に特徴的な副葬品が無い事などから、これらの竹簡はおそらく戦国時代中期から後期の物である。

竹簡群が発見される以前、楚は史記の記述などから道教や鬼道が盛んな蛮夷の国であり歴史的経緯などから儒教は軽視されたと思われていたが、守役である太傅の遺物とみられる書簡群からは道家の書は老子など4編が見つかっただけで、大半は周礼を始めとする儒家の書であり、貴族子弟の教育に関しては中原諸国と同様だったと考えられる。
貝貨

楚の首都であった郢、後に遷都した陳の周辺や江蘇省一帯から貨幣が大量に発見されているが、貝の形を模して青銅で鋳造されている。貝貨は江北に在った中原諸国や秦・燕の他の六大国で造られた鋤形・刀形・円形の貨幣とは明らかに異質なため、南北間の交易は頻繁には行われず南に在った楚は独自の経済圏を形成していたと考えられている。
県設置状況

楚国の県設置状況
県現在の位置設置時期その他
新城県
宛県河南省南陽市一帯悼王
黔中県湖南省懐化市一帯威王
江東県懐王による攻略後県名は江東に位置したことによる
巫県重慶市一帯懐王県名は巫山による
漢中県懐王
洞庭県湖南省常徳市一帯県名は洞庭山(君山)による
蒼梧県湖南省永州市一帯県名は蒼梧山(九嶷山)による

歴代君主
鬻熊
(中国語版)

熊麗(中国語版)

熊狂(中国語版)

熊繹

熊只(中国語版)

熊?(中国語版)

熊樊(中国語版)

熊?(中国語版)

熊渠(中国語版)

熊毋康(中国語版)

熊摯紅(中国語版)

熊執疵(延)(中国語版)(在位? - 紀元前848年頃)

熊勇(中国語版)(在位紀元前847年頃 - 紀元前838年頃)

熊厳(中国語版)(在位紀元前837年頃 - 紀元前828年頃)

熊相(中国語版)(在位紀元前827年頃 - 紀元前822年頃)

熊徇(中国語版)(在位紀元前821年頃 - 紀元前800年頃)

熊咢(中国語版)(在位紀元前799年頃 - 紀元前791年頃)

若敖 熊儀(在位紀元前790年頃 - 紀元前764年頃)

霄敖 熊坎(鹿)(在位紀元前763年頃 - 紀元前758年頃)

?冒 熊?(在位紀元前757年頃 - 紀元前741年頃)

武王 熊徹(在位紀元前740年 - 紀元前690年) 初めて王号を名乗る

文王 熊貲(在位紀元前689年 - 紀元前675年

堵敖 熊?(在位紀元前674年 - 紀元前672年

成王 熊ツ(?)(在位紀元前671年 - 紀元前626年

穆王 熊商臣(在位紀元前625年 - 紀元前614年

荘王 熊侶(旅)(在位紀元前613年 - 紀元前591年

共王 熊審(在位紀元前590年 - 紀元前560年

康王 熊招(在位紀元前559年 - 紀元前545年

?敖 熊員(在位紀元前544年 - 紀元前541年

霊王 熊囲(虔)(在位紀元前540年 - 紀元前529年

?敖 熊比(在位紀元前529年

平王 熊弃疾(居)(在位紀元前528年 - 紀元前516年

昭王 熊珍(軫)(在位紀元前515年 - 紀元前489年

恵王 熊章(在位紀元前488年 - 紀元前432年

簡王 熊中(在位紀元前431年 - 紀元前408年


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