楚_(春秋)
[Wikipedia|▼Menu]
楚はその後も諸侯王の一つとして存続し、呉楚七国の乱などにも加わっていたこともあった(以降はを参照のこと)。
文化

春秋戦国時代における楚が注目される理由の一つとして、独特な文化を形成していたことが挙げられる。春秋五覇・戦国七雄の中でもシャーマニズム的な要素を持ち合わせていた楚の墓中からは、「人物竜鳳帛画」や「人物御竜帛画」といったような帛画や「鎮墓獣」といった魔除けを目的とした副葬品など他国にはない出土物も多く確認されている。他国でも動物信仰は行なわれていたが、とりわけ楚では動物信仰が盛んに行なわれていたことも明らかになっている。また中原様式の建物や埋蔵品も発見されていることから、中原の影響も受けており、中国化も進んでいたことがうかがわれる。
郭店一号「楚墓」

1993年に郢地で発掘された「荊門市郭店一号楚墓」から、楚独特の漢字である楚文字で書かれた竹簡が大量に発見された。度々盗掘に遭ったせいか、保存状態の良い青銅製祭器が少数しかないため分析が難しく年代の最終的な確定はしていないが、戦国晩期の楚の墓に特徴的な副葬品が無い事などから、これらの竹簡はおそらく戦国時代中期から後期の物である。

竹簡群が発見される以前、楚は史記の記述などから道教や鬼道が盛んな蛮夷の国であり歴史的経緯などから儒教は軽視されたと思われていたが、守役である太傅の遺物とみられる書簡群からは道家の書は老子など4編が見つかっただけで、大半は周礼を始めとする儒家の書であり、貴族子弟の教育に関しては中原諸国と同様だったと考えられる。
貝貨

楚の首都であった郢、後に遷都した陳の周辺や江蘇省一帯から貨幣が大量に発見されているが、貝の形を模して青銅で鋳造されている。貝貨は江北に在った中原諸国や秦・燕の他の六大国で造られた鋤形・刀形・円形の貨幣とは明らかに異質なため、南北間の交易は頻繁には行われず南に在った楚は独自の経済圏を形成していたと考えられている。
県設置状況

楚国の県設置状況
県現在の位置設置時期その他
新城県
宛県河南省南陽市一帯悼王
黔中県湖南省懐化市一帯威王
江東県懐王による攻略後県名は江東に位置したことによる
巫県重慶市一帯懐王県名は巫山による
漢中県懐王
洞庭県湖南省常徳市一帯県名は洞庭山(君山)による
蒼梧県湖南省永州市一帯県名は蒼梧山(九嶷山)による

歴代君主
鬻熊
(中国語版)

熊麗(中国語版)

熊狂(中国語版)

熊繹

熊只(中国語版)

熊?(中国語版)

熊樊(中国語版)

熊?(中国語版)

熊渠(中国語版)

熊毋康(中国語版)

熊摯紅(中国語版)

熊執疵(延)(中国語版)(在位? - 紀元前848年頃)

熊勇(中国語版)(在位紀元前847年頃 - 紀元前838年頃)

熊厳(中国語版)(在位紀元前837年頃 - 紀元前828年頃)

熊相(中国語版)(在位紀元前827年頃 - 紀元前822年頃)

熊徇(中国語版)(在位紀元前821年頃 - 紀元前800年頃)

熊咢(中国語版)(在位紀元前799年頃 - 紀元前791年頃)

若敖 熊儀(在位紀元前790年頃 - 紀元前764年頃)

霄敖 熊坎(鹿)(在位紀元前763年頃 - 紀元前758年頃)

?冒 熊?(在位紀元前757年頃 - 紀元前741年頃)

武王 熊徹(在位紀元前740年 - 紀元前690年) 初めて王号を名乗る

文王 熊貲(在位紀元前689年 - 紀元前675年

堵敖 熊?(在位紀元前674年 - 紀元前672年

成王 熊ツ(?)(在位紀元前671年 - 紀元前626年

穆王 熊商臣(在位紀元前625年 - 紀元前614年

荘王 熊侶(旅)(在位紀元前613年 - 紀元前591年

共王 熊審(在位紀元前590年 - 紀元前560年

康王 熊招(在位紀元前559年 - 紀元前545年

?敖 熊員(在位紀元前544年 - 紀元前541年

霊王 熊囲(虔)(在位紀元前540年 - 紀元前529年

?敖 熊比(在位紀元前529年

平王 熊弃疾(居)(在位紀元前528年 - 紀元前516年

昭王 熊珍(軫)(在位紀元前515年 - 紀元前489年

恵王 熊章(在位紀元前488年 - 紀元前432年

簡王 熊中(在位紀元前431年 - 紀元前408年


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:32 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef