春秋戦国時代における楚が注目される理由の一つとして、独特な文化を形成していたことが挙げられる。春秋五覇・戦国七雄の中でもシャーマニズム的な要素を持ち合わせていた楚の墓中からは、「人物竜鳳帛画」や「人物御竜帛画」といったような帛画や「鎮墓獣」といった魔除けを目的とした副葬品など他国にはない出土物も多く確認されている。他国でも動物信仰は行なわれていたが、とりわけ楚では動物信仰が盛んに行なわれていたことも明らかになっている。また中原様式の建物や埋蔵品も発見されていることから、中原の影響も受けており、中国化も進んでいたことがうかがわれる。 1993年に郢地で発掘された「荊門市郭店一号楚墓」から、楚独特の漢字である楚文字で書かれた竹簡が大量に発見された。度々盗掘に遭ったせいか、保存状態の良い青銅製祭器が少数しかないため分析が難しく年代の最終的な確定はしていないが、戦国晩期の楚の墓に特徴的な副葬品が無い事などから、これらの竹簡はおそらく戦国時代中期から後期の物である。 竹簡群が発見される以前、楚は史記の記述などから道教や鬼道が盛んな蛮夷の国であり歴史的経緯などから儒教は軽視されたと思われていたが、守役である太傅の遺物とみられる書簡群からは道家の書は老子など4編が見つかっただけで、大半は周礼を始めとする儒家の書であり、貴族子弟の教育に関しては中原諸国と同様だったと考えられる。 楚の首都であった郢、後に遷都した陳の周辺や江蘇省一帯から貨幣が大量に発見されているが、貝の形を模して青銅で鋳造されている。貝貨は江北に在った中原諸国や秦・燕の他の六大国で造られた鋤形・刀形・円形の貨幣とは明らかに異質なため、南北間の交易は頻繁には行われず南に在った楚は独自の経済圏を形成していたと考えられている。
郭店一号「楚墓」
貝貨
県設置状況懐王による越攻略後県名は江東に位置したことによる
巫県重慶市一帯懐王県名は巫山による
漢中県
洞庭県
蒼梧県湖南省永州市一帯県名は蒼梧山(九嶷山)による
歴代君主
鬻熊(中国語版