椎名林檎
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トレードマークだった左の口元のほくろについては、「小学校時代に女優の沢口靖子マドンナのように口元にほくろのある女性に憧れてペンで書いていたら本物になった」という噂を本人が肯定しており、また2003年に手術で除去したもののその後ふたたび近い場所に新しいほくろが出来てしまったとも語っている[11][45]

デビュー当時からすでにシーナ・リンゴ名義で広末涼子ともさかりえに楽曲提供を行っている(別項参照)。

吉岡里帆のラジオにゲスト出演した際、「鶏と蛇と豚」のPVについて、「(制作した)児玉監督は主人」であると自ら明かした。さらに、「独自の視点で提案してくれる。半分はケンカするが、半分は凄い凄いと言ってるから離婚しないでいる」と語っている[10]
デビューまでの経緯

東芝EMIの制作ディレクターだった篠木雅博[注 16]が九州エリアの宣伝マンの熱心な推薦とレコード会社内でマネジメントができるという理由によって契約を決め、実績のある外部ディレクターに楽曲制作の現場を任せることにした。しかし作品の大幅な手直しが必要だとするディレクターとそれを断固として拒否する椎名が激しく対立し、その体制は断念せざるを得なかった。作品に強烈な違和感を感じた篠木自身もディレクターと同意見だったが、年配者に受け入れられなかった吉田拓郎などの前例を踏まえ、それまで経験したことがないほどの違和感は大化けの予兆かもしれないとも思った。椎名の個性を生かすには旧来のディレクションは無視して自由にやらせるしかないと考えた篠木は、アレンジャーとしてベーシストの亀田誠治を紹介してすべてをその2人の作業に委ねた[79][80]
休業

2001年からの休業は一般的には産休だと思われていたが、実際は引退して家庭に入ろうとしていた。しかし契約やその他諸々の義務を果たすためにカバーアルバムを出したところ、周囲から音楽活動の継続を求められることになった。だが当人はそのままでは続けるモチベーションが見いだせなかったため、バンド・東京事変を結成することにした。未知の相手と仕事をすることである程度の縛りを自分に与えるためであった[81]

その当時、海外リリースの話も来ていてヴァージン・レコードのレーベルにも呼ばれたが、自分自身はやめようと思っているのに周りの人々が熱を帯びていく様子がいたたまれなかったという。ヴァージンのスタッフらは彼女がやっていることをストレートに受け取ってくれたが、当時の日本の状況ではどんな曲を作っても深読みされたり意図しない方向に受け取られたりしたため、それらのことに疲れて果てたのがやめようと思っていた理由であった[81]
リオ五輪閉会式フラッグハンドオーバーセレモニー

2016年のリオデジャネイロオリンピック/パラリンピックにおいて、フラッグハンドオーバーセレモニー(以下、FHO)のクリエイティブスーパーバイザーと音楽監督を務める。2015年末に電通のFHO制作チームのクリエイティブスーパーバイザーである佐々木宏から仕事を手伝ってほしいという話があり、まずは児玉裕一監督を推薦した。年を越す前に自身も佐々木の相談相手のような立場で参加することが決まり、それならばMIKIKO真鍋大度も呼びたいとリクエストしてそれが認められた。しかし2016年の6月前後までIOC(国際オリンピック委員会)との間でプロットの擦り合わせが続き、音楽監督としての仕事は初夏まで何もできていなかった。使用楽曲については、オリンピックの方では土壇場で許可申請が却下されるなどした一方、パラリンピックの方ではある程度自由に行うことができた[82]

翌2017年12月、東京2020 開会式・閉会式 4式典総合プランニングチームに就任。
音楽性

ボーカリストとしてはロックンロールからジャズヒップホップまでこなすジャンルを問わない柔軟さを持ち、それ以外にもギターや鍵盤などの各種楽器の演奏や作編曲までこなすなど、音楽家として高度な汎用性を誇る[83]

J-POPよりも阿久悠なかにし礼のような職業作詞家たちが書いていた昭和歌謡曲に慣れ親しんできたせいか、「歌には上手い下手などなくて『歌になっているかなっていないか』があるだけなのではないか」と思っている[84]

作家としては宇崎竜童阿木燿子夫妻のコンビに憧れており、その二人の形を1人2役でこなすのが一生の夢だという[84]

井上陽水チューリップ海援隊甲斐バンドらを見出した元RKB毎日放送の音楽プロデューサー野見山實[注 17]は、デビュー前の椎名の詩集を見てその発想と着眼点、展開が凡人とは異なると感じ、曲については作品の中にジャズシャンソンなどを取り入れた同年代の若い作家にはあまり例をみない発想があると評している[17]
楽曲制作

作曲について、自身では「自分は旋律(メロディ)と和声(ハーモニー)の関係性にこそ常に関心を持つべきだ」と思っている。アレンジが違っても成立するよう、例えばスーパーなどでかかるMIDI音源のインストのようにまっさらな状態で聴いたときにいかに光るものを書いておくかが自分にとっては大事だと思っているため、ビート音色に触発されてサウンドの方から組み立てていくアプローチは極力しないようにしている。デモを作る段階で編成のボリュームを決め込むため、レコーディングでそれを生楽器に置き換えたときにそれぞれのプレイヤーからのプラスアルファによって元の音数が減ることはあっても増えることはほとんどない。しかしあまり細かい部分まで決め込んでしまうとプレイヤーの演奏を縛ってしまうので、デモの段階では最低限のものを渡している。とはいえ、皆フレーズリフはデモのままやってくれることが多いという[85]

作詞の際は、まず曲のイメージを損なわない英語で仮の歌詞を書いてからデモを作り[注 18]、そのあとでメロディと母音子音との関係性で英語詞にするか日本語詞にするかを決める。歌詞は「思いつくのではなくあとから当てはめて行くという感じ」と述べている[86][87]
音楽的ルーツ

クラシックが好きでジャズポピュラー・ミュージックへの造詣も深い父親と古い歌謡曲が好きでバレエ経験のある母親の間に生まれ、音楽的な環境に恵まれた家庭に育つ[88]。音楽的原体験はドビュッシーピアノ[89]バレエやピアノを習っていた影響で幼少期にはクラシック音楽を好んでいたが、ピアノ曲以外はあまり好きではなく、管弦楽曲でもバレエ音楽ばかりを聞いていた[89]。クラシック以外ではアストル・ピアソラマイルス・デイヴィスを聴くことが多かった[90]。歌のある曲にはほとんど興味がなかったが、父親の影響でザ・ピーナッツは好きだった[89][91]。小学生の頃は、映画『風の谷のナウシカ』のサウンドトラックや母親の好きだった五輪真弓太田裕美朱里エイコ大塚博堂寺尾聰来生たかおペドロ&カプリシャス長谷川きよし[注 19] のような古い歌謡曲、そして父親の好きだった渡辺貞夫ビリー・ジョエルおよびニーナ・シモンサラ・ボーンエラ・フィッツジェラルドなどの女性ジャズ・ボーカリストを好んで聞いていた[89][92][93][94]


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