映画評論の傍ら、東京創元社の『世界推理小説全集』の監修(1955年)や『現代推理小説全集』(1957年)『クライム・クラブ』(1958年)の収録作品選定や全巻の解説執筆を担当した。特に『クライム・クラブ』は斬新な作品選択で、ミステリー愛好家の間で後々まで伝説的な叢書となった。いわゆる「叙述トリック」作品も多く含まれており、「本格ミステリー」の範囲を広げたと評価されている。また、1955年の新東宝のミステリー映画『悪魔の囁き』の原案を提供したりもしている。
植草はこの間、40歳をとうに過ぎた1956年頃からジャズを聴き始めることになる。
1956年、初の単著『外国の映画界』を同文館で上梓。『スイングジャーナル』誌の連載(1958年5月?)を主な仕事としていた。
60年代には、フリー・ジャズやモダン・ジャズだけでなく、フランク・ザッパ、キャプテン・ビーフハート、ファグスなどのニュー・ロックも評論し、若者に支持される基盤は、すでに出来上がっていた。1966年、『平凡パンチデラックス』などの若者向け雑誌で紹介されたことがきっかけで、若い世代の読者が急増し植草ブームを招来した。1967年、本格的な単行本の第一冊である『ジャズの前衛と黒人たち』を晶文社から刊行。羽仁進監督の映画にも出演した。1970年にエッセイ『ぼくは散歩と雑学が好き』を刊行して若者にサブカルチャーを普及させた。1971年に胃の手術を受けてから、体重が約45キロへと激減し痩身となった。この時期からブームが本格的になり、一ヶ月に約300枚の原稿を執筆した。1973年には雑誌『ワンダーランド』の責任編集となる。この『ワンダーランド』が後にJICC出版局(現・宝島社)に譲渡され、『宝島』(1973年10月号から誌名変更)として発展していった。
植草はこの年の1974年4月に初めてニューヨークへ渡り、3ヵ月半滞在した。本、映画、ファッションなど様々な文化を独特の視点でエッセイとして発表し、さらに注目された。ただしそれ以前から雑誌と本とでニューヨークの街には精通しており、初めてニューヨークに行く人には、「○○と○○には行ったほうがいいでしょう。ここにあります。」というふうに助言していた。
1979年春、『ミステリの原稿は夜中に徹夜で書こう』(早川書房)により第32回日本推理作家協会賞(評論部門)を受けた。植草は同年12月10日、心筋梗塞の発作により、東京都世田谷区経堂の自宅で没した。戒名は浄諦院甚宏博道居士[1]。
植草はモダンジャズを愛し、チャーリー・ミンガス、セシル・テイラー、マイルス・デイヴィス、アルバート・アイラーを尊敬した。植草の死後、多数のレコードコレクションの散逸を防ぐために、高平哲郎の仲介で、ジャズを愛好するタモリが約4000枚すべてを買い取った[2]。蔵書の数は約4万冊にのぼり、「古本屋を開くのに最低5000冊は必要だというけれど、3軒は開ける」と植草は自ら豪語していた。終の棲家となった経堂のマンションでは、自宅の他に2戸を借り、2戸すべてを書庫として使用していた。これらのコレクションの大半はオークションと生前から親しかった古書店の手で委託販売された[3][4]。
晩年から没後に、エッセイ集成『植草甚一スクラップブック』(晶文社、1976?1980年/復刻2004?2005年)を出版。
片岡義男がパーソナリティをつとめる番組「きまぐれ飛行船?野生時代?」の中のインタビューコーナー「飛行船学校」でしばしばロングインタビューを受け、肉声を聞くことが出来た。
生前、植草に私淑したハスキー中川(経堂にてセレクトCDショップ「ハスキーレコード」を経営)は「植草さんは本屋でも、レコード店でも、散歩でも基本的にはひとりが好きで、ひとりぼっちの人でした。映画だけは淀川長治さんという理解者がいたけれど、それ以外はたった一人で自分が面白いと思うものを見つけて、たった一人で楽しんでいた。それを何十年も続けていたんです。植草さんは本当に孤独を貫いた人だったんです」と回想している[5]。
著作
『ジャズの前衛と黒人たち』 晶文社、1967