植民地
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本項では16世紀に始まるいわゆる「大航海時代」以降ヨーロッパ各国が侵略によって獲得した国外領土、戦後に本土と同等となった「海外領土(Overseas Territories、海外県)」[3]、戦後も本土と差のある「自治領(dominion)[4]」も扱う[5]

大航海時代の後、西ヨーロッパによる地球の他地域の植民地化が進展した[6]植民地主義も参照)。
総論
語源

英語の「colony」の語幹「col-」はラテン語「colere」に由来し「耕す」意。cult-も同意でculturで「耕作」「教養」。
概要

古代にも植民地はある[注 2]が、一般に帝国主義先進国が植民地を原料工場・市場として経営するとともに、住民を政治・文化・言語的に抑圧支配する。植民地を獲得する過程では、ほとんどのケースで在来住民との軍事的な衝突が起こり、その全殺戮にいたることもある。スペインによるアメリカ大陸の植民地化イギリスによるアメリカ大陸の植民地化の過程ではしばしば現地住民が激減し、フランスもカリブ海西インド諸島のマルティニーク島の原住民を1658年に殲滅し、純粋な島民は絶滅した[7]。南太平洋の島嶼部では労働者として現地住民を雇用しても失敗するのが定説であった。白人と接触以降に現地人人口が激減することも多く(ハワイやフィジー、サモアなど)、他の領土から労働者を移住させざるをえない状況が頻発した[8]

植民地を獲得したあとは、その植民地を統治・経営(植民地経営)することになる。その過程を植民地化という。1804年、フランス革命に触発されたハイチが非白人国家としては近代史上はじめて独立して以来、旧植民地諸国は現在にいたるまで数多く独立していった。ただし先進国が独立を認めた背景には、世界経済システムの変容があるといわれる[注 3]。こうした一連の過程を脱植民地化という。

日本での植民・移民の研究は明治中後期の頃であり1898年(明治31年)には木村亮吉により『於東洋英国植民政策』(ヂヨゼフ・ジヱレイベール Joseph Chailley-Bert著)が翻訳出版されている。但し「西欧列強による有色人種奴隷化」については近代以前から認知されており、豊臣秀吉の時代にすでにポルトガル人による奴隷売買が知られており、バテレン追放令の原因のひとつに挙げられることがある。幕末においてもアヘン戦争敗北による中国人の奴隷化が知られていた。明治政府は開国以来、外国人の関係する「人権問題」に否応なく巻き込まれるようになった[注 4]
統治形態

植民地の統治形態には、以下のものがある。
領事裁判権租借地租界設定条約による治外法権の確立。

外交権や駐軍権のみを獲得し内政は先住民による統治に任せて原則として干渉しない保護領

現地の王侯や部族長を通じて支配する間接統治

本国から総督や民政長官、軍政長官などを派遣して支配する直接統治

本国が外交防衛のみを担当し内政は現地住民によって民選された政府・議会に委ねる自治植民地。ただし「自治」とはいっても、参政権は本国出身者に限定されたり、先住民の参加を認めても公用語(本国の言語)習得や一定額以上の納税などの条件を付けて、事実上の参政権が著しく制限されることが多い。

自国領への併合(この場合も従来の現地住民について、市民権や国籍上の地位に区別が設定されたり、併合領土での立法・行政権など統治形態が異なることがある)

一般的に植民地統治が継続する中で1.あるいは2.から4.までの変遷をたどるケースが多いが、植民地が本国に隣接している場合、最終的に本国領土の一部として編入され、その過程で先住民も同化が進み、固有の言語文化、民族意識を喪失していく傾向にある。

植民地における主権は領有国が有するが、領有国の主権がより限定された租借地租界のまま統治が継続されるケースもある。また、特殊な形態として保護国、複数国による共同統治領、国連の委任統治領信託統治領などがある。
土地政策

主権のある未文明国に関しては共有、行政占領、租借、割譲という概念で領土獲得を行い、そうでない場合はもっとも露骨な領土獲得の根拠として「無主物先占」の法理が利用された[10]
法的地位

帝国主義の時代、植民地では本国とは異なった法律が施行、あるいは便宜の規定のみが施行され、住民には国籍や市民権が与えられなかったり、国籍を与えても「属領籍」「外地籍」「海外籍」のように本国人とは異なる法的身分に編入され、権利義務について不平等な取扱がなされた(イギリス国民や本項の日本の植民地を参照)。
非本国出身者の処遇

ただし、植民地人が本国人と同様の公職に就くことが必ずしも不可能であったわけではなく、官公庁や軍隊において高官に登用され、あるいは本国議会に選出される例もあった。このような傾向は、同化主義を建前とする日本フランスの植民地に特に強かった。イギリスの海外領土アメリカ合衆国の海外領土の住民には現在も本国の公職(大統領、国会議員)選挙への投票が認められていない。海外領土出身であっても本国に移住すれば可能である。これに対しフランスの海外県の住民はフランス内地の県の住民と同様に公職選挙への参加が可能である。これは、自治主義、分離主義と同化主義、内地延長主義という植民地統治思想の違いのなごりと見ることができる。

フランスでは1789年に、サント・ドミンゴ(現ハイチ)の代表が初めて国民議会に参加し、1791年の法律ですべての植民地に本国府県と同等の権利を認め、国民議会に代表を送り、最高法院の法官を選任する権利を与えた[11]

フェリックス・エブエフランス領ギアナで黒人奴隷の子として生まれたが、いくつかの植民地の長官を経て1941年にフランス領赤道アフリカの総督に任命された。

後にコートジボワールの初代大統領となるフェリックス・ウフェ=ボワニは、シャルル・ド・ゴール政権下でフランス公共保健・人口相(厚生大臣に相当)に任命された。

ダーダーバーイー・ナオロージーを始めとする数名の英領インド出身者がイギリス下院議員に選出されている。

後に第二次世界大戦期の日本軍占領下で建国されたビルマ国の国家元首となるバー・モウは、1937年にイギリス領ビルマ植民地政府の初代首相に選出された。

イギリス帝国領インド植民地政府の高級幹部職員であるインド高等文官(ICS)の採用試験は、19世紀後半にインド人にも開放された。結果、インド独立時にはインド人ICSが全体の31%を占めるにいたった。

ムハンマド・アクバル・ハーンはイギリス領南アジア出身のムスリムイスラム教徒)として、はじめてイギリス領インド軍の将官に進級した。

アブドゥル・ラヒームは1908年にマドラス高等裁判所の裁判官に任命され後に同裁判所長官となった。

フィリピン1937年アメリカ合衆国に直接統治される植民地から、独立を視野に入れた自治植民地(コモンウェルス)に移行し、独立準備政府の初代大統領としてマニュエル・ケソンが国民投票によって選出された。

日本統治下の朝鮮における道知事の概ね半数程度は朝鮮人であった。

衆議院議員として朝鮮人の朴春琴が選出されたほか13名の植民地出身者が貴族院議員に任命された。


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